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C'est pas mal, 凡人 3.

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

個性的というのは大抵の場合、好意的だったり肯定的に特別といったニュアンスを含んで使われる言葉だと思うけれど、個性は個人それぞれがもともと持っているものなのだから、それが普通の人、凡人であろうが誰もが個性的であるのは当然のことなのではないかと屁理屈っぽいことを思う。

同じような使われ方をするものに「普通じゃない」「他の人とは違う」といったものがあるけれど、ひねくれているぼくは、普通って何だよ、みんな同じじゃないなんて当たり前だろと思ったりもするけれど、かく言うぼくも若いころは普通じゃ嫌だ。みんなと違って個性的でありたいと、やはり思っていた。

30年ほど前、遊び仲間であり、かなり年上の友達が経営されている人気の居酒屋さんへ通っていたときのこと。
いつものようにカウンターで独り黙々と食事をしていたぼくの隣では、若いカップルのお客さんがカウンター越しに店主と随分と盛り上がっていた。
この店主である年上の友達は職業柄もあるだろうけれど、それを抜きにしても天才的に話術の上手い人だったので、こういった光景はいつも見かけるものだった。
カップルがとても満足そうに「また来ます!」と言って帰られた後、お見送りをした店主はカウンターの中へ戻り、ぼくにこう話しかけてこられた。

「西山、いまのわかったか?お前らくらいの若いやつを喜ばすのなんて簡単や。『きみ、変わってんなぁー』これだけや。このひと言だけで、自分は他のやつらとは違う思うて喜ぶんや」

ぼくはドキッとした。相変わらず口の悪いおじさんだなぁとは思ったけれど、彼の言ったそれは真理をついているとも思った。
あれからもう30年も過ぎたけれど、「きみ、変わってんなぁー」と言われ喜んじゃう人がいまも多いことを思うと、普通じゃない、他の人とは違う自分でありたいといった人の心理は、時代や世代関係なく普遍的なものなんだと思う。

「ぼくは天然なんで」と言っちゃう人が天然でないように、「ぼくは変わってるってよく言われるんです」と嬉しそうに話す人と会っても変わった人だと感じたことがないことを思うと、ごく一部の人を除けば世の中の大半の人はいわゆる普通の人というのが現実だろうし、無理に変わった人になる必要もないのではないかと思ったりする。

ぼくが自分のことを普通の人間、恐ろしいほどの凡人というのは、昨日書いたように現実を知り自分の能力を思い知った上でのことなので、そこに謙遜といったものはないしまったく卑下することもない。
いまではうちの店が上手くいっているなら、だからなのではないかとさえ思うようになった。
ぼくの考えるもの、作るものがむしろ普通だからこそ広く多くの方に来てもらえているのであって、もしぼくが才能にあふれすごいものを生み出すような人間だったとしたら逆に一部の人にしか支持をされなかった気もする。
やはり普通であること、凡人であるのって、そんなに悪いものでもないよって思う。


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