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空洞に退屈が入り込むのか、退屈が空洞を作るのか。

「退屈なのよ!」
連休中になんとなく見始めた映画の終盤、セックスレスの夫に、40歳を過ぎた主婦が取り乱し、叫ぶ。
私は妙に感心してしまう。この混乱と苦しみと寂しさの正体が退屈だとわかっているって、すごいな。
彼女はカウンセリングを定期的に受けているほどに悩んで苦しんでいる。期待はずれなカウンセリングに戸惑いながらも、現状を打開しようと、または本能の赴くままにあらゆる行動する。なんとかしたい現状がそこにある。セックスレスが1つのわかりやすい表面化したものだったけど、きっと正体はそこではない。
女子会で酔っ払った彼女は、「自分は子どものアルバムを作っていない」と荒れる。写真をクラウドに保存していて、アルバムを作っていないと感情を爆発させる。「f**kin' cloud!!」。クラウドめ。
ほとんど胸の内を話さない夫が、終盤で妻に語った言葉が、「i think i was asleep. 」日本語訳は「目を背けていた」。

結局正体は自分が生み出した「退屈」なのだ。退屈は、セックスレスを生み、育児の不完全燃焼を生む。
「面倒なことを避けたい」という極自然なことに退屈がセットでやってきて、なんでもないような顔をして居座るそいつが諸悪の根源だったりする。
面倒なこととは、クラウドに自動保存されることに任せるばかりではなく写真を選び一枚ずつテープで止めてアルバムを作ることだったり、
人との関係をスリープ状態せずに、向き合うことだったり。

怠惰な人間にとって、やらずに済むことはそのままにしておきたい。でも面倒なことに労力をかけないことを選び続けていると「退屈」が心に蔓延る。私たちの心には空洞があるから、油断することあいつがすぐにやってくる。私たちの空洞を狙って「退屈」がやってくる。
それでもでもやっぱり面倒なことはやりたくない。そして退屈と空洞の肥大化の悪循環に陥るのだ。「退屈」は面倒くさがりへの罰なのか。
映画では夫婦は問題を乗り越える。最後の場面で子どもに手作りのクラフト作品を作り、必死に向き合っている彼女の表情が印象的だ。


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