ラカンへの道のりは遠かった
難しいよーーーーう
学者の主著を追いかける時に思うこと
講談社選書メチエの『ラカンの哲学』を読んでいる。
人文系の学者の本にありがちなのだが、自分に前提知識が無さすぎて何を言っているのかとてもわからない。
前提知識というのはつまり、フロイトから始まって、カント、ヘーゲル、ブルトン、、、と数珠繋ぎに綿々と繋がっている過去の哲学者、心理学者たちの主著や、彼らの捉えている哲学であったり、
また、レヴィ=ストロースやエーリッヒフロム、ノームチョムスキーやスティーブンピンカーなど、同時代に勃興してきた、社会学として重なる領域を持った他ジャンルの学者達の主張のことだ。
つまるところ大変な教養というのが必要で、
面白いんだけれどこれは時間がかかるなあというふうに白目をむいている次第である。
興味深いテーマ
ラカンの主著に至るまでの前準備的な部分を読み進めているが、とても面白かったことがある。
心が何かということを考えると、
自分とは何か、ということを確立していく装置であって、
自己の中だけで完結してしまうと、それは思考をした瞬間毎の、浮かんでは消えるバラバラのものになってしまうので、
通時的な一貫性や、同一の自己としての認識の為に、言語化や言語コミュニケーションを持って、「他者からの客観性」みたいなものを得るんだ
複数の心的装置が言語を通して共通の軸を持つことで、心と自分というものを確立していくんだ、というのがヘーゲルまでの流れなんだが、
では果たして言語というのは本当に個々の心的装置を客観的に擦り合わせられるだけの機能を有しているのだろうか
ということに次の焦点があたっていて、
これは今現在社会科学や人文学、認知科学全般を通して研究が進んできたホットな領域のことで、
科学としてわかってきたことのはるか昔から思考実験出来ている事象としてとても胸が熱くなった。
と同時に、この言語の神話的機能、つまり意思疎通のための完成されたツールという概念は、割と早い段階から懐疑的であって、
要するに言語コミュニケーションというのは思ってるよりも圧倒的に機能してないんだ、ということが多方面から声が上がっているので、
となるとフロイトやヘーゲルの哲学というのはどのように変化するのか、ということがとても興味深いな、なんて思ったりした。
本を読みながら、わからないことだらけでほとんど理解できていない節はあるんだが、わからないなりにまた読み進めていこうと思う。
難しいけど楽しいぞ、、、!
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