危機感を持てという無意味な警告

宿題をやれと言えばみんながやってくれるという勘違いの末路


危機感はどのようにして生まれるか

具体的な実害が自分に迫った時である。


この、自分に迫っているということが大事で、



ようするにこれは、自分の生活だったり、存在意義に関わるということである。



危機感を持てない人、というのがいるとすれば、



その当人は今の生活のバランスで安定しているということだから、



そこから無理やり差し迫った危機感など得られようはずもない。



彼らに対して危機感を持てよメッセージするのはオオカミ少年の如き愚行である。


危機感は本当に大切なのか


精神論の軸で考えると、僕はそんなにそれは必要ないと思うから、少し別の軸で考える。



成功と幸福の違いを、かつて「得たいと思ったものを得られるのが成功、得たものを自由にコントロール出来ることが幸福である」と結論づけた。



だから、成功=幸福ではないし、成功→幸福は考えやすいが幸福→成功は考えるのが難しい。



今回で言えば、危機感を持つことは何かを得るための手段であるから、成功のための方法の一つといえる。



ただし、この場合の危機感というのは、競争をする上での上昇志向のための起爆剤、といったところだから、


あってもなくてもよい。


僕自信、例えば新しい恋愛をしようとするときに、


「基本的にデブはモテないよな」と思うからダイエットしたりするし、ある意味でこれは危機感なんだが、



これをやらないと負けちゃうんだ!頑張らなきゃいけないんだ!と焦る、と言うよりは、



単純に「僕のターゲット層にヒットするには体を絞ると効果的」だからダイエットする、みたいに、ドライな気持ちで処理していて、特に危機感を持ったりとかではない。



それは要するに、



・得たいと思うもの
・それを得るという客観的な状況観察
・得るために必要な行動


というものを淡々とフォーカスしていき、


それ通りにコマンドを実行していく、みたいなことで、


これが出来れば別に危機感はいらないんじゃないか、という気がしている。



本当に欲しいものは


どちらかというと気になるのは、



彼女にしろお金にしろ成功にしろ、


本当はあったほうがいいよね、と心の中で思っていながら、



それを得るには道のりが遠いが故にどこかで諦めてしまっている、という状態にあるのだとしたら、



そのように本当に欲しいものを手に入れるための努力を捨てて、


ニヒルに生きることには何の意味もないよね、ということな気がしている。



得たいものが何もない、というならそれでいいと思う。



だけれども、その気持ちが自発的なものではなく、何らかの状況によって押さえつけられた結論だとしたら、



押さえつけられてずっと雲がかかってしまった自分の心を、自分らしさだと解釈するのではなく、



本当に得たいもの、在りたい姿をもう一度見つめて欲しいなあと思う。



なぜって、求めるものを追いかけて泥臭く生きれることこそ本質的に自由だからで



死ぬ間際に一番後悔するのは、自由に生きなかったことだと思うから。

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