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合理的な創作入門書、でもそれだけじゃ足りない | Jul.6

天候のせいか、調子が悪く、一日ずっと何にも集中できないまま、本を拾い読みしていた。

読んでいたのは、ジェーン・K・クリーランドの『物語のひねり方』、リサ・クロンの『脳が読みたくなるストーリーの書き方』、ラリー・ブルックスの『物語を書く人のための推敲入門』の3冊。
ところどころ読んでは、他の本に移る「アイランド・ホッピング」みたいなことを、ずっとしていた。

日本でも「小説の書き方」みたいなものはたくさん出版されている。
ただ、なんというか、日本の作家の書いた小説入門は、いささか文学的に過ぎる、叙情的に過ぎる感じがする。
小説家が書いているのだから、叙情的なのは当然なのだが、奥歯にものが挟まっているというか、不純物が混じっているというか、僕が期待しているような単純明快さとは違う感じを受けることが多い。

その点、アメリカの出版事情、作家事情の中で書かれたものは、笑ってしまうほど明確で、合理的で、拾い読みでも十分に楽しむことができた。

小説はこういうものです。
そのために必要なのはこういう要素です。
要素を組み立てる順序はこうすると効果が高いです。
最初のページにはこういうことを書きましょう。
途中には必ずこういうシーンを入れるようにしましょう。
場面の切り替えはこういった書き方があります。
最後まで書いたら、次はこれとこれとこれをチェックしましょう。

すべてがこんな具合である。
さすが最初に月に人間を送り込んだ国だなあと感心した。
これなら後5年もしたら、アメリカで販売される新刊小説の3割ぐらいはA.I.が書くようになっているかもしれない。

こういった本に書かれていることを金科玉条のように崇めても、小説は書けないから面白いのだが、基礎体力を付ける、衰えた筋肉を鍛えなおすには具合がいい。
終始、紋切り型のレクチャーを受けているようで、つい笑ってしまいそうにもなるが、十分参考になると感じた。

突き詰めるところ、小説とはいったい何なのだろう、と考えることがある。
単にシーンやシークエンスを書き連ねていけば、最後に小説になるかといえば、そうではない。
書きたいものを書けば良いかといえば、それもそうではない。
名文で書かれていれば、それで良いというものでもないらしい。

根拠はないが、小説というものは架空の現象を仮説として利用することで、形而上的な何かを受け渡す装置なのではないか。時々、そう感じることがある。
たった1行のことをすべて伝えきるために、500ページとか、1000ページを費やすのが小説なのかもしれないと、そんなふうに思うのだ。

でも思い描いた好きなシーンを書くのは楽しい。
ついつい楽しさに気を取られてしまう。
そうしている間に肝心なことが抜け落ちたままだったり、勝手に伝えきったと思い込んだり。
ああ、怖い怖い。

と、このところ、そんなことを考えていたもので、「大怪我する前に、もう一度、身体を作り直さないとまずいぞ」という注意信号に気がついたというわけだ。
もちろん、どれだけ体格が良くなっても、どれだけ筋肉が鍛え上げられても、それだけで書けるほど、小説って簡単なものではないだろうけど。

(今日読んでいた3冊はこちらです)


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