見出し画像

同じ悩み

午後から恵比寿で開催している絵描きの友達の個展に行ってきた。
平日のギャラリーは来客も少ないだろうから、ゆっくり作品を見ることも、話をすることもできるだろうと踏んだのだ。
予想通り、ギャラリーをほぼ独占して展示を堪能することができた。
嬉しい誤算だったのは、コロナの蔓延以降、会えてなかった友達が個展にきていたことだ。
染織家である彼女の活動の様子はネット越しに見てはいたが、文字のやりとり以上のことはしていない。実際に声を聞いたのはまるまる2年ぶりだ。
来客が少ないのをいいことに、絵描きと染織家とまだ何者でもない僕の3人で2時間半も話し込んでしまった。楽しい時間だった。

手の動かし方は違うけれど、二人とも手を使って何かを作り出す人である。
個人的には物語を作る作業もまた手を動かすことだと思ってはいるが、彼らのように直接的に関与しているかといえば、それは疑わしい。
僕自身も暗室で写真を焼くとか、手製のノートカバーに自作のコラージュを使うとか、手を動かす作業をしないわけではないが、絵を描いたり、糸を染めたり織っている彼らと比べると、趣味の範囲で手を動かしている感じが強い。
彼らがバッターボックスに入っているとしたら、僕はネクストバッター図サークルどころか、ボールボーイがいるファウルゾーンのその先で素振りをしているようなものだ。そこには随分と大きな差、距離がある(それ自体を悲観的、否定的に見ているわけではないが)。
そう考えると、文章を書く、物語を作る作業というのはなんなのだろうなと、彼らと話している最中に考えてしまった。

「小説は書いてないの?」といつものように聞かれたけれど、それに対する僕の返事は「途中で、これをこのまま進めても自分が作りたいものにならないってわかった時、どうする?」という質問だった。

絵描きの彼が白紙に線を描き、色を挿していくように、染織家の彼女が生成りの糸を染料に浸して色を染めていくように、物書きは空間すら出来上がっていない宇宙の始まりの場所で文字だけで世界を立ち上げていく。
その世界が自分が作りたかったものでなかったら、「神」の立ち位置にいる書き手はどうするんだろうか。そのことを彼らに聞いてみたのだった。

「別の紙に最初から描き直す」
「途中でやめても糸は戻せないから、仕方なく最後まで織る」
それが彼らの答えだった。
重要なのは「どうするか」ということよりも、絵画や染織とフィールドは違っても、作り手には同じようなジレンマが襲いかかるものなのだとわかったことかもしれない。
彼らの答えを聞いても気楽にはならなかったけれど、「それでも作るしかないからねー」という苦笑いは、僕も含めて3人に共通したものだった。

ぜひサポートにご協力ください。 サポートは評価の一つですので多寡に関わらず本当に嬉しいです。サポートは創作のアイデア探しの際の交通費に充てさせていただきます。