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最適なプロットの作り方を探して

 たいがいの小説指南の本には、プロットの作り方が懇切丁寧に書いてある。
 プロットは小説を書く上で迷わないための設計図だ、とか、プロットを作ることで矛盾などをあらかじめ回避できる、とか、プロット作りをオススメする中身を読むと「プロット万能じゃん」と思い始めたりもする。
 しかし「小説を書こう」などと思い立ってしまう人たちは、そもそも文章を書くことが好きで、得意な人たちなのである。
 オフィスワークでもあるまいし、どうしてわざわざスプレッドシートに場面割りをしたり、シーンごとのイベントや登場人物を書き込んだりしなきゃならないのか、甚だ疑問だった。
 小説の書き方など千差万別でも誰も困らない。
 それなのにどうして「プロットはこうして作る」なんてのを鵜呑みにしてしまうのか。
 とかく指南書等々に付き従う形で試したくなってしまうのは、まだルーティーンを確立できていない迷走期にあるからに違いない。

 小説の書き方が自由であるのなら、プロットだって自由でいいはずなのに、誰かの方法論を試したくなるのは、小説を書き終えることがそれだけ難しいからだ。
 多くの人がちゃんと、納得のいく着地点まで物語を運んで行く方法を探しているから、世の中にこれだけの数の小説指南が存在しているというわけである。

 小説の書き方については、僕は万人に通じるような王道はないんじゃないかと思っている。きっと片っ端から試してみて、自分なりの方法を見つけていくしかないんだろう。
 どれもこれも自分には合わなかったとしても、寄り道や無駄足から得たものは、やがて寄り集まって、自分に最適な方法に変身するような気がする。 

 僕も相当に広範囲にわたって寄り道やら無駄足を繰り返してきた。
 やたらとペダンチックな方法やら、チャート図やら、まるで映画の絵コンテみたいな方法まで、ちょっとでも気になれば試してみたけれど、結局どれもしっくりこなかった。
 プロットを作るどころか、プロット作り自体が合目的化してしまって、途中で飽きて放り出したこともあった。
 その行く末にたどり着いたのが、いま試している「雑に書いてしまう」という方法である。

 おおよその筋や登場人物、作中で起きそうな出来事はプロットの前処理で散々書き出してある。
 それをもとにして、細部まで描写されていない表層的な小説として恐ろしく雑に書いてしまう。
 雑さとは、全部が500枚ぐらいになるとしたら、30枚ぐらいで終わってしまうほどの雑さだ。
 細かいところへは踏み込みもしないし、掘り下げもしない。使う言葉が多少おかしくても、作中の時代や場面と不適合でも一切無視。
 例えば時代小説であっても平気で「アウトに膨らむことも気にせず、コーナーのインを攻めて、逃げた男のあとを追った」とか書いてしまう。「推しのアイドルが突然目の前を通り過ぎて行った時のように目で追った」とかもアリである。要は作中の人物の心境や表情、感情が、書いている自分と共有されていれば良いのである。そのニュアンスをつかんでいさえすれば、あとでどれだけでも適切な言葉に置き換えることはできるというわけだ。

 このやり方は、とにかくスピードが落ちなくていい。
 書いているのは詳細な地図ではなく、略図、完成品ではなく試作初号機でしかないのだが、イメージと記録していく速度に大きな乖離が起きないので、僕のような飽きっぽい性格の人間には合っているようだ。

 試してみて気づいたのだが、この雑に書く方法には一つ、副産物があった。
 個人差はあるだろうが、概ね小説を書こうとする人は読書家でもあろう。読んできた小説の量も相当な数になっていると思う。
 その読書経験が試作を読み返す時に実に役立つ。
 どこが面白くて、どこがつまらないか。どこに無理があるのか、どこを膨らますべきか、ちゃんと気づくことができる。
 人の書いたもののアラに目が止まる嫌なクセが、よもや自分の書いたものにも発揮されるとは思わなかった。
 これもまた新しい発見なのであった(まったく自慢にならない)。

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