最初から完成形で出来上がるものなどないとわかっているけれど
先日、ちょっとしたとっかかりを思いついて以来、クロッキー帳に連想したことを書きまくっている。
珍しくサイズ感の大きな思いつきで、長い物語を書くのが好きでも得意でもない僕としては少々面食らっている。
小説を読む醍醐味の一つに「一気読み」がある。
寝不足になる翌日のつらさはわかりつつも、あと10ページだけ、もう5ページだけと読み進めてしまい、最後には1日ぐらいの寝不足で死ぬわけじゃないと開き直るあの感覚は小説以外ではお目にかかれないものだ。
そういう楽しさを自分で知っているくせに、いざ書くとなるとどうにも上手くいかないのはどうしてなのか。長い間、謎としてずっと僕の中に巣食っている。
飽きっぽい性格が影響していることもあるのは間違いないのだが、それが根本的な原因だとは思えない。だいたいにおいて小説を書こうなどと思う人間の性向として空想や妄想はくしゃみやあくびと同じくらい自然にやってしまうものだ。頑張って空想するとか(ということもなくはないけど)、必死になって妄想するなんてことはない。生理現象みたいなシロモノだ。
それでもとっかかりを見つけたり、アイデアが浮かんだとしても、長いものを書くところまで行くことは滅多にない。
最近になってようやく気づいたのだけれど、どうも僕は「文章は書き直さないもの」と思い込んでいるフシがある。それが小説を書く上では大きすぎる障害になっているのではないかと気づいた。
僕は気分転換に下手な絵を書くことがあるのだけれど、絵を描こうとすればまずキャンバスに下書きをし、おおよその配置やら見当やらをつけてから絵の具を塗りつけていく。
途中でおかしいところが出てくれば絵の具を削り、上から描き直すか、あるいは全部削り落として下塗りをし直してから描き直すか、いずれにしても描きながら修正し、できたと思ったところからさらに修正して満足できるところまで持っていく。もちろんいろいろな描き方はあるのだろうが、僕の描いている手順はわりとオーソドックスなのではないかと思う(習ったことがないので正確なところはわからない)。
これがこと小説になると、頭から出てくる時点でその文章は完成しているのが当然だと思っているところがあるのだ。
noteに書き連ねている駄文には一切下書きがない。思いついた順に書き、描いた文章から次の文章が引き出され、やがて着地点が来たら文章が「ここが終点だ」と教えてくれるような感じで書いている。
もちろん完成度合いが高いとは思っていないし、手を入れればもっとわかりやすく読みやすい文章になることもわかっているが、「そうまでしなくても意味は通るよなと思える文章を書いているだろう」という程度の自信はある。
原稿用紙に換算して3〜5枚程度の文章でしかないのに、たったそれだけの量で意味がわからないようなものになるようなら、そもそも書く資質に問題が —— ありていに言えばセンスがないんじゃないかと思う。
そんな妙な自信があるせいで、書くものが小説であっても頭の中ですべてが完成して(この時点ですべてが自分自身に見えているとは限らない)、あとは出来上がった物語を自分の外に取り出すだけじゃないかと考えてしまうのだ。
世の中に最初から完成形で出来上がるものなどない。
小説は絵と同じで、何度も描きなおし、足りないところは足し、余計なところは削り、おかしいところは修正して、ゆっくりと出来上がっていくものだ。それがわかっていながらしばしば忘れて、頭の中で全部を組み立てようとしてしまう。
そうしているうちに頭は疲弊し、考えることに飽き始め、やがてその小説は書かれずに何処かへ消えていくのである。それで良いはずがない。
そんなわけで苦手克服のためにクロッキー帳にアイデアに関係する思いつきやアイデア、連想などをすべて拾っているというわけだ。
クロッキー帳はまもなく2冊目に入る。
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