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横書き嫌悪症、悪化す

WEBで文章を読むことに限界がきた感がある。
説明的なものやニュース、ハウツー本のような中身なら問題ないのだが、創作や小説の類はまったく受け付けなくなってしまった。
文字面を追いかけていても、想像の中で映像化したものが頭の中に浮かんでこないのだ。

便宜上、横書き嫌悪症と名付けてみたのだが、ネーミングは相変わらずイマイチ。だが、名前はともかくとして、横書き嫌悪症の症状は読むだけに限ったことではない。書く方にも悪い影響を及ぼしている。

先日来、構想していた小説を大まかなプロットに仕立て、試し書きをしてみたのだが、これがどうにもこうにもひどいのだ。箸にも棒にもかからないと言うけれど、箸や棒どころか、網ですくっても何も引っかからないような文章しか書けなくなっていることに気づいた。

いちばんひどいのは、文章が短絡的になってしまっていることだ。
一つのことについて説明なり、描写なりをしようとすれば、それほど簡単にいかないものなのに、とにかく文章が表面をなぞっただけの浅いものにしかならず、薄っぺらく、小さな塊にしかならない。Twitterなどの短文文化に慣れてしまったゆえの現代病なのかもしれない。
自分は違うとどこかで思っていたにもかかわらず、大間違いだったことに気が付いて、蒼くなってしまった。

横書きで書かれたものと、出版されている小説の分量に大きな差があることは、以前から気がついている。
縦書きで書かれた小説を、横書きで読むことなどとてもできない。
英語で書かれた小説を縦書きで読むほどではないにせよ(そういう意味では日本語は縦横共用の言語だ)、日本語は縦書きの方が読みやすいように思える。

こういう奥に潜ませた意味や、読む解くべき仕掛けも、描写もない、文字面に目を通すだけで用が足りる薄っぺらく、無意味な文章なら、横書きでも苦労はないのだろうが、小説となるとそうはいかない。
わかりにくさをなくすために、やたらと説明的になったりするのも、文字面だけでわかるようにする無意識の工夫なのかもしれない。
もちろん過度に説明が過ぎるのは、小説の技巧としては褒められたものではない。だが、場に合わせるとしたら否応無く説明を増やさざるを得ない。そうして文章はますますひどくなっていくのだ。

実を言うと、最近の若い作家の書いた小説を、僕は読み切ることができない。
いわゆるキャラクター小説というやつだが、後学のためにと本を手にとって見るのだが、9割近くは途中で挫折する。物語の設定もストーリーもそこまでつまらないものだとは思えないのに、どうしても途中で止まってしまう。
最近の作家の文章は、自分が読んできた文章とは全く性質が異なる。言葉の変化についていけないから読めないのかもしれないと諦めてきたのだが、仮にWEBに最適化した説明過多の文体が原因なのだとすれば、納得がいく。
「小説」と一括りにしても、WEBと紙に印刷されたものはまったくの別物なのだ。

いまは思いつくままにダラダラと書いているだけだけれど、小説を書くときには、僕はすべてを縦書きで書いている。
プロットも、参考資料も、登場する人物像のメモもすべて縦書きだ。
その方が見た目に把握しやすく、わかりやすい。
それに、説明や描写を省略せず、最適な長さ、最適な分量で書くには、やはり縦書きの感覚が必要なのだ。

そう考えると、noteなど、ハウツーを書く気など微塵もない僕には、日記や思いつきを書きなぐるのが程よい付き合い方なのかもしれないと、そう感じている。
(と、これだけ書いてもまだ原稿用紙4枚に満たないからね。雑誌の1ページだって、これの倍の量はあるってのに。とまあ、そういうことなんですよ、横書きって)。

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