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結論を書くなんて野暮なことはしなくて良いのだ | Jul.31

先日、「書こうとしたことと違う方向に筆が進んで」全然違うことを投稿したら、「気になるからさっさと書け」と、友達から文句をつけるメッセージがすぐに届いた。
「飯の一度ぐらい奢ればすぐに書いてやる」と言いたいところではあるが、付き合いも長いし、引き出しに放り込んだままにしておくのもなあ、と書く気になった次第。

書こうとしていたのは、小説であれエッセイであれ、結論なんて書かなくて良いんだなということだ。
考えてみれば「かくかくしかじかで、だから結局、つまりはこういうことなんですよ」などと書いてある小説など読んだことがない。
「誰が何と言おうと、世界で一番大切なのは愛なのです」なんてことが小説の最後に書かれていたら、興ざめもいいところだ。読んでるこっちが恥ずかしくなる。

noteにある役に立つ多くのテキストに共通しているのは、ちゃんと何らかの結論が提示されている。
ハウツー的なテキストに結論がなかったら、飛んだ尻切れトンボだ。
様々な知識や経験に基づいて書かれたものは、お題が提示され、解釈され、例が示され、結論が導かれる。ハウツーというのはそういうものだし、ちゃんと完結するから誰かの役にも立つ。
noteに限らず、ハウツー本やビジネス本の基本的なフォーマットは総じて同じだ。

僕はあまりそういったテキストを読まないのだけれど、序論〜本論〜結論、起承転結というフォーマットには無意識に影響されているのか、ついつい結論を書きそうになってしまう。
そもそも書き始める前に「ああ、これを書こう」と思いつく時点で頭に浮かんでいるのは、「**について書こう」ではなく「**は##なんだな」という結論だったりしないだろうか。
予め頭に浮かんだ結論に向かってテキストを構築していく。途中で違う方向に進みそうになったら、都度軌道修正をする。書かれる前から結論が存在するわけだ。

結論がないといっても、本当にないのではなくて、具体的に書かれていないだけだ。村上春樹が小説を指して一言で済むところを500ページ使って書く作業と言ったのはそういうことなんだろう。

僕はそもそもが無責任に書きなぐる方が好きなので、例えば「飲みかけのコーヒーについて書こう」みたいなことも平気でする。
もちろん飲みかけのコーヒーに結論などあるはずがない。「酸っぱくなるから、時間をおいたコーヒーは飲まない方が良いよ」と言うつもりも、「電子レンジで温め直すときは、ちょっとだけ水を足してから温めると良いよ」と言うつもりもない(例えは適当なでっち上げです)。

何より、自分でわかってしまっている飲みかけのコーヒーの便利な使い方を書くより、飲みかけのコーヒーから連想したその場の思いつきを脈絡もなく書くほうが楽しい。
そうしてダラダラと書いていると、あるところで「はい、ここでおしまい」と、文章がピタッと止まる。
文章を書いていると「あ、これはここで終わりだな」とわかるものだ。
そこに落語でいうところのサゲがあったら最高だが、これはなかなか難しい。だからといって噺のサゲのところで「ご隠居が学んだのは……」なんてやったら落語崩壊である。オチはあっても結論はいらないのだ。

こうして書いても、あの野郎、飯なんざ奢らないだろうなあ。


注)落語には「こうして二人は末永く、仲睦まじく暮らしましたとさ」と、昔話のような一言で締める噺もあります。ちゃんと書いておかないとね。

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