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名は体を表すというけれど、文体も……

 文章の硬さ軟らかさというのは、その人自身の性格が大きく影響しているらしい。
 前々から頭に浮かんでいるアイデアから起こしたプロットを元に初稿を書き始めたのだが、アイデアと自分の文章の雰囲気とがまったく合わない。
 かくかくしかじかという話をこういうテイストで書くことで、こんな効果が出るだろうから、それを小説の外側の仕掛けとして、もう一度小説の中に組み込んで………みたいな構造を考えるのが大好きで(こういうのは写真にせよ現代美術にせよ、ノンバーバルな表現方法をとっている人は常日頃から考えてる気がする)、それを試してみようと書き始めたのだけれど、どうにもうまくいかない。
 うまくいかないのは構造に無理があるからではなくて、構造を浮かび上がらせる道具である文章の雰囲気が乖離してしまっているのが原因だった。

 文体を必要に応じて思うがままに使い分けることができるのは、知り得る限りジョイスをおいて他にない。アイデアを具現化するために、結果として天才ジョイスと同じことをやらなければならないのだとしたら、それは背伸びを通り越して、地に足がついていないどころが、中空に浮いてしまっているほどの現実離れとしか言いようがない。高望みにもほどがある。
 書いても書いても筆が先に進まず、書き出しからすでにしんどいという状況が続いて、ようやく自分にそぐわない文体で小説を書くことの難しさを知ったのでした。

 これまで結構な量の小説を読んできたし、読書量には自信がたっぷりある。文体がいかなるものかも折に触れて考える機会は何度となくあった。
 文体が作家自身を否応なく表象してしまう性質であることもわかっていたし(これは写真をやることで気づいたことでもあったけど)、隠そうとすればするほど、今度は隠そうとしていること自体が露見してしまうという悪循環に陥るという始末。結局は自分の性格や本質から発する言葉に物語を乗せるしかない。
 先へ進めない状況を打ち破るために、割り切って話の筋だけを生かし、目論んだ仕掛けを全部捨て去ったら、俄然書きやすくなった。書きやすいだけではなく、書いている最中にどんどん付随するアイデアが浮かんでくる。
 孫子の兵法ではないけれど、やっぱり己を知らなければ、百戦全敗だってあり得るんだなあと思った次第。

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