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断片小説集 8

 いつも夢に出て来る人がいる。妙齢の女の人だ。
 私は彼女のことをよく知っていて、夢で会うたびに懐かしく思う。親密だったというより、大きな信頼を置いていたような人だったらしい。

 彼女が夢に出てきた日の朝は、目が覚めた瞬間からすでに幸福に包まれている。
 それが冬の寒い朝であれ、夏の暑さですでに汗ばんでいるような日であれ、彼女の夢で始まる1日はそれだけで幸福なのだった。

 現実の彼女に会った記憶がない。
 夢の中では彼女の声も耳にし、名前すらわかっているのだが —— 名前を知っていることを夢の中の私は理解しているのだが、名前で彼女を呼ぶことはない —— 、彼女がどこの誰なのか、私にはまったくわからない。それでも彼女とかつてどこかで出会っている確信だけはある。
 今の私にはその記憶だけが硬く封印された石の扉の向こうにしまわれているのではないかとすら感じる。彼女が姿を見せる夢は整い過ぎているほどにリアルなのだ。目が覚めた直後はもちろん、1日が終わる夜になってもまだどこか濃厚な現実味が褪せることがない。
 今日の出来事の一つのように、音も温度も手触りも記憶に刻まれ、私は現実と夢との境界線を見失う。
 そして私は、誰だかわからない彼女がどこかで幸福でいてくれればいいと願うのだ。

 一つの可能性が浮かんだ。
 私は彼女を知っている・・・・・・・・
 かつて、彼女とどこかで会っている。
 街で見かけたとか、雑誌で目にしたような間接的な出会いではなく、もっと近しく、互いのことをよく知るほどに私は彼女を知っている。そのことを私は思い出せないでいるのだ。
 彼女が誰であるのか。私はそれを突き止めることにした。
 ポケットからスマートフォンを取り出し、テンキーを表示させた。
 電話帳を開くより早く指が動いた。
 押された11個の数字は記憶にない番号だった。

(「九番目の夢」)

*        *        *

 これだけ世の中が様変わりしても、長く続く家には不思議な習慣が残っている。そのことを知ったのは結婚をして相手の家を継ぐことになった時のことだ。

 とある地方の旧家に育った彼女は早世した兄に代わって家を継ぐことが宿命づけられていた。当然、彼女にとっての結婚は、相手に婿に入ってもらうことで、それが彼女にとっては小さな重石のようになっていたらしい。
 彼女と付き合い始めてすぐに僕はそのことを聞かされた。
「気を悪くしないでね。先のことなんてわからないし、アパートの重要事項説明書みたいなものだから」

 「古い家だから代々伝わる家訓がたくさんあるんだけど」と、彼女は付け加えるように言い始めた。
 親戚付き合いもなく、完全に核家族化していた我が家には、もちろん家訓などない。あるのは「脱いだ靴下はそのままにしない」とか「帰りが遅くなるときは連絡する」といった家訓とは程遠いルールだけだった。旧家の家訓と聞いて、僕の頭に浮かぶのは床の間に掛けられた書画や、屋根の四隅に置かれたいかめしい鬼瓦、広い庭に建てられた漆喰塗りの蔵、そんなものばかりだった。

「私と結婚する人は、家訓のうち3つだけは絶対に守らなきゃならないわけ」
「絶対に守らなきゃならない?」
「そう。それは当主だけじゃなく、家の人は全員守らなきゃいけないことになってるのよ。面倒臭いでしょ」

 彼女の家で代々守られてきた3つのルールはこんなものだった。
「一つ、靴は左足から脱ぎ、左足から履くべし」
「一つ、上座には女が座るべし」
「一つ、家宝の皿は粗略に扱うべからず、納戸にしまうべからず、日頃より使用すべし、割れた際には粉ひとつ残さず拾い集め、継ぎ直すべし」
 僕には、どれも取るに足らないもののように思えた。意味がわからないところが家訓めいていて、ちょっと格好いいとすら思った。

 3年が経ったのち、僕たちは結婚をした。
 スケジュール表にあらかじめ書き込んだ予定を淡々とこなして行くような、障壁も波乱もないスムーズな結婚だった。
 家に入った最初の日の夕飯で、僕はくだんの家訓の皿を初めて見た。
 彼女の実家家訓が守られ続けてきた粉引きの皿は、すでに数え切れないほどの金継ぎで補修されて、ほぼ全面が金色になっていた。
 金の皿に乗った鯛の刺身がこれほど不味そうに見えるものだとは、僕は知らなかった。
 頭の中には秀吉の貧相な肖像画が浮かんだ。

(「粉引きの皿」)

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