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あらすじを書く

 長い小説を書きたいと思っては二の足を踏むのは自分の飽きっぽさを自覚しているからだ。
 緻密なプロットを立てて、計画に則って書き進めていけば良いのだろうが、先が見えているものを書く退屈さに我慢できる自身もない。

 計画を立てずに、直感に従って思いつくままに書いていく「パンツァー」と、あらかじめ進捗、工程を定めてから書いていく「プロッター」の二種類のどちらかといえば、僕は確実に前者だ。
 プロット作りは好きだけれど、模型作りのような楽しさを味わってるだけで、そこから壮大なジオラマを作るとか、隅々まで徹底したミニチュアを作る方向には進まない。
 パンツァーの語源である「Seat of the pants」は、直訳すれば「パンツの座席」。飛行機の操縦由来の慣用句らしい。意訳すれば「飛行機ってのは計器の数字で飛ばすんじゃねえ、ケツで飛ばすんだ」みたいな精神論が元になってる慣用句のようだ。
 「ケツで飛ばす」的な体育会ノリはそれほど嫌いではないのだけれど、目的や終着点がわからないままダラダラと続けるのは大嫌いなので、ゴールははっきりとさせておきたい。ターゲットが決まっていれば(見えていれば)途中がどうであろうが、そこに向かうことは大得意なのだ。

 ふと思いついて、今日の夕方から時間を区切って集中してあらすじを作ってみた。アイデアは以前からぼんやりと浮かんでいたものがあったので、不時着でも構わないから、それをどこに着地させるかを試してみようと考えたわけだ。流れに任せるのではなく、腕力で強引に着地させるトレーニングのような気分だった。
 3時間かけて6,000字余り、原稿用紙換算で16枚ほどのあらすじができた。若い時ほどの瞬発力はないが、セーターから毛糸を引き出すように次の展開が出てくる時のスムーズさは若い時よりもずっと滑らかなものだった。これもいろいろな経験、紆余曲折、回り道、障害物競走をした結果なのだとすれば、やっぱり人生に無駄は少ないのだなあと感心するしかない。

 付け加えるならば、歳を食うと恥も外聞も気にしなくなるということも間違いなくある。
 身につけているものが汚かったり、眉をひそめられるような格好をするのは論外だし、自分自身が不潔不衛生で不快感しか与えないようでは話にならないが、こと小説を書くというときに、若い頃にはあった自意識は面白いほど自由に出し入れができる。他人の目——いつか誰かに読まれるのかもしれないというような願望にしか基づいていない個人的な未来予想図を意識して、無駄に装飾したり、身の丈に合わない比喩を使ったりすることがどうでも良くなる。

 ただ、難しいのは「書きたいものを書く」のか、それとも「書けるものなら何でも書く」のか、どちらを選んだらいいのか。これについては相変わらず迷う。自意識のラスボスみたいな感じだ。
 今日、あらすじを書いてみたのはどちらかと言えば後者だった。
 「これがお前の書きたかったことなのか?」と同級生に胸ぐら掴まれて迫られたら「すんません、違います」と小さくなるしかないのだけれど、自我と自意識とを受け手に押し付けるのは芸術家の仕事なんでねえ。
 文芸なんてのは基本面白ければ勝ちみたいなところがあるし、世の中のエンターテインメントというやつは、大抵そうできてるものだ。テレビ番組にしても映画にしても。
 落語家だって「笑わす」ために噺をやってるだけで、高座に上がって喋ってる最中に、客より先に笑ったら商売上がったりなのだから、面白いか面白くないかの前には、書きたいか書きたくないかという迷いなど瑣末すぎてどこかに吹き飛ぶようなもののような気がする。
 今日書いたあらすじが面白いものになるのかどうか。それがいちばんの問題だ。
 腕力勝負になる予感はたっぷりある。

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