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検査の結果と小説書きの分水嶺のこと

先週受けた血液検査の結果を聞いてきた。どこにも異常はなかった。
異常はないどころか、遺伝による中性脂肪の異様な多さとコレステロールのバランスの悪さを除けば、僕の血液から導き出される答えは「あなたは痛風とは程遠い健康な状態です」という一言だけなのだった。
胸に埋め込んだ機械から伸ばしたケーブルを、血管を通して心臓の内側にまで差し込んでいる人間に「健康です」もないもんだが、ともあれ唐突に起きた肘の痛みは世に言う「風が吹いても痛い」シロモノとはまったくの無縁だった。

痛みに呻き声を上げた当人としては「じゃあ、あれはなんだったんですか」と聞きたくなるのは当然のことで、でもクリニックの院長先生曰く
「なんだかわからないね。筋力が落ちたところに急に大きな負荷がかかったとかかなあ。でもレントゲンで骨も筋もなんともなかったんでしょ?それに炎症が起きていれば血液検査の項目にちゃんと反応するはずだし……」
と、語尾は急降下していく秋の夕暮れのように、迫る宵やみの中に消えていくのだった。
そんなわけで、あの痛みの原因がなんだったのか分からずじまいだった。
「とりあえず痛みは引いているわけだし、今のところは他におかしなところも見当たらないし、とりあえずは現状オッケーということで」というオチになるとは思わなかった。潜り込もうとした布団が触れても呻くほど痛かったのに。

問題は「なんだか分からないけど、とりあえずオッケー」という部分である。
(なんだか分からないけどオッケーなのはオッケーなのか?)
(なんだか分からなくていいのか?)
(なんだか分からないものをどうしてオッケーと言えちゃうんだ?)
心の中ではクエスチョンマークが同時多発的にいくつも浮かんだわけだけれど、実際のところ痛みはなくなっているのだし、曲がらなかった肘も曲がる。途中の計算はわからないけれど答えが出てしまう数学の問題などいくらでもある。原因がわからないまま結果が出てしまうのは良くあることに違いない。

不承不承でもなく、腑に落ちないことを引きずるでもなく、僕はそのまま帰宅したわけだが、その途中で「わからないけどオッケーはオッケーなのか」問題が頭を離れなくなった。

世の中には「そういうものだ」と思い込んでいるだけで、実はわかってないことなんて掃いて捨てるほどある。
「科学的には」なんて言い方はその最たるものだ。
実際の原因と結果の関係もわからないままでも「科学的には」と付け加えれば、大抵の人は納得する。本当かどうかもわからないのに。
わかないことがわからないままであることと、「わからないけどオッケー」との間に流れているはずの細く暗い川を暗渠になるくらい掘り下げていくと、きっとそこには発見がある。
ただ元が皆目わからないのだから、理論立てて証明するようなことはできない。すなわち小説に書くくらいしか手がない。瑣末で普段は無意識に流してしまっているようなことだから、純文学などの元ネタにするにはきっと持ってこいだ。
小説家なら、こんなネタは一度は試しに書いてみるだろう。試すまでは口外などせずに蔵の中にしまいこんでおくはずだ。

ところが僕はこうして書いている。
まったく無駄な雑文として、わからないけどオッケーなことを書くのはオッケーみたいな軽薄さで書いている。
ここが小説書きと非小説書きとを分ける分水嶺なのではないかと、セブンイレブンでウィルキンソンのトニックウォーターを冷蔵棚から引き出しながら思ったのだった。

って、書いちゃってる僕はどうしたらいいんでしょうかね。

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