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戦う理由 第10話

 ゾモスの修道院は石橋を越えた川沿いにある。すべての巡礼者は一時滞在する。許可が出たあと護衛とともに聖都に向かう。歩きで半日もかからない。
 ヨアニスは庭を突っ切った。回廊を抜ける。兵士が数人ついてくる。腰の剣ががちゃがちゃと音を立てる。修道院は領地そのものが砦になっている。本堂に僧坊、修道士と見習いの住居。厨房に倉庫。かつては城下町と肥沃な土地を備えていた。数百年の戦のあいだに破壊と再生を繰り返した。城下町はいまでは煉瓦と石の丘になっている。
 フラニアのベアトリーチェは領の南、貴人用の客室で暮らしている。ヨアニスは床屋を呼んで髪を切った。風呂に入ってきれいに剃刀を当てた。着物を新調し、鎧兜を磨いた。
 ひとまず北東の院長室に立ち寄った。修道院長に挨拶する。
「例の冒険者はおとなしくしておりますか」
「ええ。たったの十人で、よくもまあ死なずにたどり着いたものです。女がひとり、熱病に罹っておりました」
「ベアトリーチェが」
「蛮人の女です。ムーラー殿がいらして、癒やしました。神官殿はこのごろ少し、大きな顔をされているようですな。評判が立っておりますよ」
「わたしが言って聞かせます。おのれの死は癒やせないでしょうから」
「ベアトリーチェの正体はいまのところ、大隊長殿のみがご存じです。だがいずれは皇帝に報告しなければなりません。なにしろその、直々にお達しがありましたので」
 狸はこうして足元を見、報酬の額を釣り上げようとする。騙し、騙され。奪い、奪われ。宮廷に暮らすと人の心がすり減っていく。
 院長とともに南に向かう。坊主頭をなでる。気が急いている。まるで小僧だ。騎士ならば腰も脚も太いだろう。気が強く、男のようにずかずかと歩きまわる。年はいくつだ。パルミィに聞いておけばよかった。
 ヨアニスはひとり笑った。貴婦人に年を聞けるはずはないか。
 再び中庭に出る。通廊から廊下を左に曲がる。気づけばほとんど駆けていた。揺れる鞘を手で押さえつける。革の草履が石の床をこする。
 控えの間から広間に入った。縦長の部屋に木の列柱が並んでいる。天窓から白い日が射し込んでいる。
 天使がいた。柱に触れながら若者と話している。白い絹を着ている。
 こちらに顔を向けた。編んだ黒髪が揺れた。緑の瞳がヨアニスを捕らえる。唇と頬に紅を乗せている。思っていたよりも儚げに見える。
 神の思し召しだ。神には逆らえないだろう。
 修道院長が進み出た。ベアトリーチェを紹介する。ヨアニスは深々と頭を下げた。
「ヨアニスと申します。聖都で大隊長を務めております。お話し中でしたか」
 ベアトリーチェは答えない。戸惑っている。若者は細身だがじゅうぶんたくましい。それに美しい顔をしている。婚約者かもしれない。だが顔つきが幼い。
 若者の耳にささやいた。うなずいて頭を下げた。中庭のいちばん手前の扉に入った。ともに暮らしているのか。いや、修道院では男女は別々に暮らさなければならない決まりだ。
 なにをうろたえている。
 ベアトリーチェは硬い表情で口をひらいた。
「先の者は、わたしの騎士でございます。名はカイン。院で誓いを立てたうえ、こちらに出入りをしております」
「気にしてはおりません。立派な若者ですね」
 見つめ合う。ヨアニスはなにをしに訪れたかを思い出した。
「入都を、許可いたします。一週後、わたしとともに出立いたしましょう。ときに、癒やしを求めに参られたのですか? 夫君がご病気だとか」
 瞳が見つめる。探るように。
「悪しき心を癒やすことはできるのでしょうか。わたしの善き心は彼方にあり、どの殿方も見つけられない。わたしは多くの罪を犯し、この年まで独り身で生きてまいりました」
 ヨアニスはぞくぞくした。騎士道も悪くない。
「ならばわたしが千の隊を率い、奪還いたしましょう。あなた様のお心はどちらの方角にあられますか」
「失礼ですが、お生まれをお聞かせください。下賤の者とは話したくありませんので」
 非礼を詫びた。面を上げる。天使はかすかに微笑んだ。誘うように唇をひらく。

 カイは癒えた。癒やしが心を悪に誘う。また魔物と戦えるぞ。強くなれ、強くなれ。傷を癒やして強くなれ。
 ベアはいちいち婦人部屋に呼びつけては細々とした用を申しつけた。梨が食べたい。店で香水を買ってこい。採寸屋を連れてこい。毎日着替えては似合っているかとたずねる。だれよりも美しかった。胸がうずいたが、それだけだった。
 カイの手を取る。居間から奥の寝室に導く。ふたりきりで寝台にすわる。さらに奥には納戸がある。
 ベアは肩に頭を預けた。菫の香りがした。いつか嗅いだ香。アデルを想う。口の中で祈りをつぶやいた。悪魔の手からこの身をお守りください。黒き心を近づけないでください。
 騎士として話しかける。
「だれも捕らえに来ませんね。王は早馬を送らなかったんでしょうか」
 ベアは答えない。カイはつづけた。
「〈黒き心〉は忘れ、どうか気をつけて暮らしてください。暇をください、ご主人様。ぼくはアデルと帰ります。ぼくたちの故郷に」
「アデルといると弱くなる。わたしだけがあなたを強くできる。貴人にできる」
「師匠と護衛の仕事をするつもりです。商船にも乗れるのだとか。楽しみですよ」
「あなたは剣士でわたしは剣。別れることなどできない。剣なしでは生きていけない」
「下女をつけます。用があればそれに言ってください。もう会いたくない」
 声が震えたが言い切った。ベアの温もりが離れた。敷布を握った。涙がひとすじ頬を伝った。
 肩を震わせる。涙のしずくが腿に落ちた。カイはこらえた。演技だ。策略だ。これでお別れ。二度と話さない。しばらくアデルと聖都を見物しよう。〈黒き心〉を拝みに行こうか。いい土産話ができるだろう。
 ベアは嗚咽した。口を覆った。涙がぽろぽろと落ちる。白い着物を黒く濡らしていく。
「愛がわかりかけてきたのに。あなたが愛をくれたのに」
 カイは立ち上がった。深々と頭を下げる。
 言うべきことはなにもない。背を向けて居間に入った。できるだけ急いで広間に向かう。

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