戦う理由 第12話
狭い神殿通りを練り歩く。日が高くなってきた。道も煉瓦の建物もからからに乾いている。巡礼者たちが異国の言葉で騒いでいる。土埃と人いきれで息苦しい。
カイは右手の高い壁を見上げた。兵士がずらりと並んでいた。鉄の兜が陽光を受けて白く膨らんでいる。通りにもうろついている。あれらをまとめているのがヨアニスだ。千の騎士で攻め込んでいたらどうなっていただろう。
道なりに行くと市に入った。人の波を押し分けながら進む。飯屋に菓子屋、土産物屋などが次々とあらわれる。占い札にガラス玉に〈黒き心〉の玩具。熱い煮込み汁のにおい。カイはぼうっとしながら右を見やった。白い石段が天に向かって延びている。みなも自然と仰ぎ見る。上り終えた先には巨大な彫像と列柱がそびえ立っている。柱が三角の屋根を支える。どれも白い石でできている。夢の中を漂っているようだ。
ヨアニスが怒鳴るようにして告げた。手引にあったとおり、赤い札をもらうまでは楽園に入れない。ひとまず聖使徒教会堂を詣でられてはいかがか。巡礼者たちはさらに南に向かった。ヨアニスは兵士を一人呼びつけた。こちらの戦士方をわたしの貸し家に案内してさしあげろ。セルヴたちがぞろぞろとついていく。ヨアニスはカイとアデルを呼び止めて言った。
「若いお二人も、拙宅にお招きしたい。南西の一等地だ。静かで涼しく、緑が多い。下賤な者もうろつかない。快適に過ごせるだろう」
ベアと三人で西に向かった。ヨアニスは道中、聖都の歴史やら見どころやらを説明した。丁寧な物腰だったが獣の心を押さえつけているような雰囲気があった。カイはふと気づいて納得した。自分たちを招いたのは紳士ぶりたいからか。ふたりきりになりたいくせに。
緑の小道を抜けると恐ろしく広い家があらわれた。広場をそのまま家にしたような一階建てだった。カイは玄関のそば、東の客間を借りた。ひとつでいいかと冗談めかしてたずねてきた。
夜、吹き抜けの中庭に集まった。卓は白い大理石。天使の彫像が四隅に飾ってある。低木が涼しげに彩る。料理が来る前に乾杯した。氷入りのブドウ酒を含む。薄くて上品な味。夜気と虫の声が心地いい。異国の地にいる。
「しばらく滞在していただくことになります。巡礼者は重病人でもないかぎり、等しく順番を待たなければならない。待つあいだにカネを落とす、都は栄える、というわけでしてね」
飯のあともヨアニスは上機嫌だった。おのれの武勲や財産、いかに皇帝と親しく付き合っているかなどをベアに語った。部屋に引き返しながらアデルが言った。あの人ならベアを幸せにできるね。カイはそれとなくうなずいた。ヨアニスは飢えた獅子にしか見えない。強い男に強い女。愛のない者どうしの結婚。たしかにお似合いだ。もうなんの関係もない。
二日、三日、四日。まだ神殿からお呼びがかからない。今日も朝から呉服屋の界隈を行ったり来たりした。アデルはまだ迷っている。カイにはどの店もどの着物も同じに見えた。
昨日と同じ店に入って同じ親方に挨拶した。アデルは奥に飾った薄緑色の着物を見つめた。あれが気に入りらしい。蔦のような銀の刺繍が入っている。ベアの着物より薄手で上等に見える。なんの生地なのかは知らない。
親方が上手を言いながらアデルに着せた。針で仮止めしながらたどたどしく言った。長持ちしますよ、西の姫様。ひとえだけど織りがきっちりしてるでしょ? 西方の銀貨なら両替手数料込みで五十五枚。カイはぎょっとした。どうして布きれが自分の鎧より高いんだ。
アデルは買った。略奪の分け前で百枚も持っていた。ついでに毛糸編みの腰帯を選びはじめた。茜色、血色、紅色。どれも同じ赤だ。腰に当てては似合うかとたずねる。カイは似合っていると答えた。アデルは不満げだった。
教会の鐘が昼を告げた。麝香売りの店で香りを嗅いだ。菓子屋で焼き菓子を買った。蜂蜜菓子を食いながら歩く。中には干した果物がみっちりと詰まっていた。いままで食べたどんなものよりも甘かった。とにかく休みたい。女の買い物はもううんざりだ。
日差しがさらに強くなる。店が閉まりはじめた。どの家でも昼寝をしていた。仕方がないのでヨアニスの家に戻った。石の部屋で火照った肌を休める。互いの着物を脱がせる。観光よりも楽しいことがある。
羽根布団に横たわる。抱き合ってただ唇を重ねる。どちらかが耐えきれなくなるまで。一個の桃をふたりで食べる。アデルが太腿で脚を挟み込んできた。こらえきれずに腰を動かす。瞳が潤みはじめる。
アデルが桃の汁をなめる。カイはその舌を味わう。アデルは切なげな声を漏らした。我慢できない。入れて。カイはじらした。買い物のお礼だ。
指でアデルの興奮を静めた。仰向けで交互に桃をしゃぶる。アデルは満足げな吐息を漏らした。
「お金持ちって最高ね」
「こんな暮らしをつづけてたら腑抜けになる」
「そしたらわたしが守ってあげる。虱たかりの豚さん」
上唇をくわえてなぞるように舐めた。突然エミリーの豚顔が浮かんだ。おまえはぼくの友達だ。ずっと友達だった。アデルに目をやる。戸惑っている。思い出が蘇る。女にいいなりの農奴の小僧。頭の中は獣と同じ、心にはなにもなかった。悪さえも。哀れだった。涙がにじんだ。
「もう、豚と呼ばないでくれ。昔とはちがうんだ」
「ごめんなさい。もちろんちがう。いまはたくましくてかっこいい。好きよ。入れて」
ヨアニスが戸口から入ってきた。アデルは悲鳴を上げて跳ね起きた。枕の下から下着を引っ張り出す。ヨアニスは手のひらを向けた。裸のままでいろとでも言うように。
カイは床に足を下ろした。ヨアニスは狭い部屋を行ったり来たりしている。坊主頭をしきりになでる。カイは様子をうかがいながら股引を穿いた。
急に立ち止まった。
「わたしの求婚を受け入れてくれない。だれかがわたしたちの幸福を呪っている」
カイは心を抑えて言った。
「ベアは、ぼくを愛してるんです」
「なにが愛だ。話は聞いた。聖都で暮らすつもりならば、わたし以上の相手はいない。わたしは高い地位にあり、多くの土地と建物を持っている。きみにはすてきなお嬢さんがいる。奴隷にはもったいないほどの娘だ。いいな?」
大きな手で肩をつかんだ。怒りに気づいた。
「いいな? きっぱりと申し渡すんだ。あなたを愛していないと」
「ぼくは奴隷じゃない。ベアの騎士だ」
「奴隷は奴隷だ。手荒な真似はしたくない。だから丁重にお願いしている」
「愛してるんですか」
「やめろ。あれの男子が欲しいだけだ。いますぐ婦人部屋に行くぞ」
手に力がこもる。人を恐れていない。力で人を操る。本当に強いからだ。弱い豚はなんでも言うことを聞く。
アデルが背に抱きついてきた。優しくあやす。
「泣かないで。悪い夢だったのよ。もう終わったの。悪い思い出は忘れましょうね」
カイは両手で顔を覆った。勝手に顔が歪む。壊れた人形のように手が震えている。涙がぼろぼろと出てきた。うめき声を上げて泣いた。〈黒き心〉は言う。わたしが欲しいのでしょう? 弱い豚は欲しがらない。すぐにあきらめる。なんでも言うことを聞く。
「ヨアニスさん。ぼくと、決闘してください。ぼくはベアを、愛してる。結婚は許さない」
肩をつかんだまま黙っている。石の部屋におのれの慟哭がこだまする。
手を離して言った。
「怖いか」
「はい」
「どんな強者でも決闘は怖い。だが怖いのは、剣どうしが打ち合うまでだ。戦士ならば覚えがあるだろう」
「はい」
「手加減はしない。生き残った者が姫を手に入れる。死は〈黒き心〉をもってしても癒せない。癒やす価値もない。弱い者は地に還るのみだ」
「あなたを倒してベアを奪い取る」
「立派だ。試合は一週後。いますぐ荷物をまとめて出ていけ。準備し、覚悟を決めろ」
ヨアニスは部屋を出た。カイは顔を拭った。嗚咽が漏れ出る。喉がひくつく。
アデルが首から手を離した。
「どうしてなの」
「ぼくは豚じゃない。ベアの騎士なんだ。もう豚じゃないんだ」
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