見出し画像

雨、鉄を鳴らす 7

それから、


そこは、大きな窓から光の降り注ぐ、清潔そうな場所で、部屋の中央にはベッドがあった。ぬいぐるみが一つ、女と寄り添うかのように置かれている。歳の頃で言えば十七、八にも見える身体には、肉々しいものが一切感じられなかった。点滴台に足を乗せて滑り出した私は、廊下を二往復する間にその部屋を三度確認していた。いつもは閉まっている戸が放たれて、カーテンの裾からグレーのカーペットが覗き、長い髪が束になって落ちていた。廊下のパトロールが終わった後、恐る恐る部屋に入る。
女の目が開かれたのは一、二分経ってからの事だった。女は不意にあけた目に飛び込んできた私に少し驚いたようだったが、すぐに何でもないという風にして宙をぼんやりと眺めていた。私は暫くその女の顔を見つめていたが、急に息苦しく、内部の蛆がうずいているのを感じた。(この頃、身体の中に蛆がある、そのように感じられることがあった。恐らくそれは我々が日常で知覚する限りの蛆とは違う。しかし、体内で蠢き、身をよじるこの感覚を他の言葉や生物に例えることは難しい。だから‥‥。)
何か話さなければ・・・その瞬間、女がさっとこちらを驚いたように見た。忘れていた何かを急に思い出したかのような眼差しだった。
 突然、強く、私はその女に触れたいと思った。身体のうちにある蛆がそう欲しているようでもあった。あらゆる細胞が彼女に向けられる。熱が私を支配し、穴という穴の一つ一つから汗が吹き出すのを感じた。女は女で何かを感じているらしく、ギョッとした眼差しでこちらを凝視している。するとすぐに「ギャ」と叫び声をあげたかと思うと、その眼は更に飛び出さんばかりの恐怖の色に染まった。その恐怖に導かれるまま、女の目の先、つまり私自身の身体を見ると、吹き出した汗と共に穴という穴から無数の蛆がうようよとわき出ていた。私は「あっ」と一瞬間思ったものの、しかしながらそれ程には驚きもせず、視線を女に戻した。女は、声にもならぬ音を出してその身をバタっと起こしていた。それは大変な所業に思えたが、彼女はあまりの驚きに後押しされたのか、やけにしっかりと頭を身体の上へと保っていた。
その時、私の中の蛆が今だ、とばかりに女めがけて飛び出していった。女は驚き、そして泣いていた。よく見れば彼女は裸体であった。女の身体に蛆が入り込んでいく。繊細な皮膚を、美しい絹のようなその皮膚を、容赦なく突き抜けて、私からでた蛆は彼女へと向かっていった。突き破られた皮膚からは赤い血が溢れ出て、私は少し興奮して泣いた。彼女も勿論泣き叫んでいた。その声はまるで赤ん坊が母親の乳房を呼ぶ時のような、そんな高らかなものにも似ていた。蛆は彼女の体内を浸食しだしたようだった。その度に血はどくどくと流れ続けている。ふとみると、私の身体には無数の穴が開いていた。蛆が出て行った穴だろうか。しかし、赤い血は一滴たりとも流れてはいなかった。そのことが何故だか無性に悲しくなり、今度は大声を出して泣いた。女の身体は蛆に浸食され続け、型を持たなくなった。彼女はもう彼女という形態を持ってはいなかった。そこにはただ赤い海が広がっていた。私はそこにうずもれて、うずもれて、泣きながら、うずもれていった。海には底がなく、私は赤に全身をうずめて、染まっていた。
…これでもう安心だ…


気がつくと私は私の身体を見る事ができなくなっていた。もはや見るという行為そのものを思考する事が難しくなっていた。自身の先端と後端が常に一緒くたになったような妙な心持ちで、その身を起こしてみたものの、直立しているというよりも無造作に転がり、うねり蠢いているという気分に陥った。しかし、この場は常に充たされている。ここは、この場所は満ち満ち、溢れている。私は今までに感じた事もない充足感を抱きながらただ身身体のうねりに身を任せ、這い、蠢いていた。
私は誰からも私を強要された事などない。求められた事も一度もない。
私は誰かの言う愛を知らない。私は誰かに愛され抱かれた事が無い。それは人間として、生物として異常な事と見なされるのだろうけれど、私はちっともそれを求めていない。けれど私は毎月の赤を見る度に女である事を認識させられる。女で在る事、女である事は男ではない事。女である事はひっそりと、それでいて確かに誰かに抱かれるという欲望から成される受動。それはしかし、生に導かれる瞬間には、たった一人の力で生成されそれまで受けていた行為に対する反撃のように猛烈な力を要する事。
私は赤を欲している。しかしそれは人間として在るためのものであって、女である事ではない。しかし私は女である。拭いきれぬ程の赤を垂れ流す、そんな女である。何故この身体が在るのか「私」にはわからない。もはやそんな事は私自身においては、関係のない事のように思えた、眼の前の何かを認識するという所業すら「私」には検討のつかぬところにあるのだった。
ただひたすらに這ってはって、這いずり回る事に幸福を感じた。信号は赤であった。私は赤を欲していたから何も迷う事なく進んだ。


どこかで声が聞こえる。人間の声とそれと、動物の、そうか、あれは、犬。
その獣の声が聞こえる。

――犬は嫌いだ。


———————————————-



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?