フィクションでさえも、私の人生だ。
最近、ある発見をした。
そのおかげで、心がスッと軽くなったので、忘れないようにnote に残しておきたい。
ただ...発見したその「残しておきたい言葉」と、発見して私が「感じたこと」があまりにも感情的すぎてうまく書けるか自信がない。
ちゃんと、届くといいのだけれど...。
ドキドキがワクワクに変わった日。
私は人と話をする際に、答え合わせをしてしまう癖がある。
-この人はどんな話が好きなんだろう?
-こういうコミュニュケーションは苦手かな?
-今日、どんな言葉が欲しくて誘ってくれたのだろう?
そんなことを考えて話してしまうので、緊張する..と言うよりプレッシャーだ。
だから人が多く集まり、コミュニケーションを求められる場が苦手だ。
「私人見知りなんだよね」と予防のような一言を伝えて、サッと友人の後ろに隠れてしまうこともよくある。(自己肯定感が低い。嫌われたくない。そんな気持ちがあるからなのだが...その話はまた今度。)
つい最近もそんなドギマギするような体験をした。
先日ある友人たちと食事をした日のことだ。
友人が「きっといい話ができると思うよ」と知人を紹介してくれたのだが、楽しみな反面、それはそれは緊張した。
「相手には私たちのことなんて伝えているの?!」と問いただしてみたり、少し早めに集合して作戦会議の時間を作ったり。
終いには居ても立ってもいられず、私と友人で先にお店に入り1杯飲んでいたくらいだ。(お酒が好きだという話も、また今度にしようと思う。)
だが、友人の言った通りだった。
とてもいい時間だったのだ。
忘れたくない言葉に出会った。
共通するものがあったから。というのはもちろんなのだが、なんて言えばいいのかな...
自分では言葉にできなかった感情を話してくれる姿に嬉しくなり、ワクワクした。「そうそう!」と共感して、私も本音で話すことができたからだ。
心地よくお酒を飲み、笑い、感動して泣いた、あの日の夜。
忘れたくなくて、その場でいくつかメモをした言葉があった。
その中でも印象的だった言葉は...
「フィクションとノンフィクションが混ざり合って人生はできている。」
この言葉が、なんだか涙が出るほど嬉しかったのだ。
真実だったとしても、人によって受け取り方が違う。
1つの事象に対しても、一人一人が自分のフィルターを通して物を見て、聞いて、考えて、落とし込んでいると思う。
時にその違いは、争いの元にもなるが...
言葉を変えれば、何が真実かは自分で選べるということなんじゃないかと思い、それはとても自由で豊かだと感じたのだ。(これは、私一個人の捉え方だが...)
真実(現実)だけが人生ではなく、想像して、選択して、感じればいい。
その積み重ねが私の「人生」なのだとしたら...
フィクションでさえも私を創ってきたのだとしたら...
今まで歩んできた日々の中で、正しい選択をできなかった日も山ほどあるが、「それでもいいんだよ」と自分自身に言える気がして心がスッと軽くなり、救われた気持ちになったのだ。
きっと映画や小説好きの私は、「フィクションとノンフィクションが混ざり合う」と聞いて
膨大すぎる「人生」が、自分で創っていける「物語」のように感じて途端に愛おしくなったのだ。とても単純な理由だった。
好きな映画の台詞を思い出した。
「彼自身と その人生が救われる
現実にではなく 想像の世界において
我々 物語を創る者は
想像力で悲しみを癒す
そして人々に
尽きせぬ希望を与える」
「ウォルトディズニーの約束」という映画で、「過去の自分を許し、彼の人生を称えよう。」というシーンで言う台詞だ。
想像力で悲しみを癒すだなんて、都合がいいかもしれない。
でも、現実の世界と、想像の世界を行き来して、私たちは「人生」という物語を創っていける。
いや、創っていいのだとしたら心が弾んだ。
友人と食事をしたあの日の夜。
私はお酒の力も借りてか、ふわふわと足が軽い。
新しい魔法を覚えたかのような気持ちでご機嫌に帰宅した。
帰り道、好きな人にその日の出来事を知らせたくてたまらなかった。
おわり