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アラサー、幻想の海を泳ぐ

どこかにあってどこにもない東京

気が付けばモンゴルにいて、気が付けば全国に友達のいるよしおさんの「東京生まれ、東京育ちコンプレックス」。私も生まれてこの方東京の西暮らしなので、「都会」でもない、でも「東京出身」な微妙な気持ち、わかるなあ。さらに私は実家も祖父母の家も東京の西なので、周りの子の「田舎に帰省するんだ」にあこがれがあったりしました。

一方で「都会の東京」ってなんだろう。東京のプチ田舎から出て、都心で働いてても「都会にいる」自覚がなかったりする。・・・自分の中に「都会の東京」と対になるイメージがあって初めて「都会の東京」が生まれるのかな。

そうすると「都会の東京」はどこかにあって、どこでもない、幻なのかも。東京でも東京でなくても、「なんにもない」と思ってた自分の生まれ故郷をじっくり観察すると見えてくるっていうのがなんだか皮肉で面白い。幻だから不確定でも変わっていってもいい。都会でも田舎でもない、みんながそれぞれ、自分の東京を探していくのが面白いのかも、とふと思うのでした。

アラサーという共同幻想

言葉のイメージといえば、どうにもひっかかるのです、「アラサー」。そう、この自然によくつかっている「アラサー女子」。

今や自然に使っているけれど、「アラサー」が出始めたころって、「恋に仕事に大忙しの30歳前後の女子」をキャッチ―に取り上げるドラマや雑誌なんかが多かった気がしませんか。さらによく思い出すとドラマの内容は「もうすぐ30歳なのに彼氏がいない」「まわりは結婚して幸せそうなのに」「結婚か仕事かどちらかの選択を迫られる」「仕事に集中してたら恋がおろそか」・・・を総称して「恋に仕事に大忙しの30歳前後の女子」だった気がするんです。

そう、キャッチ―なのにちょっと自虐的な称号、「アラサー」。あえて明言はしませんが「30歳前後の女性はこうあるべきだ」という共同の幻想がぺたぺた張り付いている気がするんです。

幻想の海を泳ぐ

ところがどうした、実際なってみたらなんて軽やかなんだアラサー。学生を卒業して社会人になるまでみんなほぼ同じだった選択肢が、それぞれに分岐していくのがとっても面白い。

子育て頑張っていたり、家庭と仕事のバランスを考えて仕事を選んでみたり、とんでもなくバリバリ仕事こなしてたり、趣味に夢中になっていたり。チームで活動したり、ひとり時間を楽しんだり。突然モンゴルにいたり。住むところも生活の仕方も選べる。周りとの人間関係やお金のやりくりの方法を自分なりに考えて生きていける。

人生の選択肢がたくさんあって、自分で選んでいける。自由なのが「アラサー」じゃないか!とふと思うのでした。「こうあるべき」幻想のアラサーを飛び出して、この交換日記は「もっと自由な」アラサーの海をぎこぎこ漕ぎ出していきたいね。


ちる


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