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【日本とヨーロッパ・平行進化の歴史】梅棹忠夫『文明の生態史観』

今回は、「日本美術史」と「西洋美術史」の関係を考える上で重要な本を最近読みましたので、それについてなるべく簡単に、かつ分かりやすく紹介しようと思います。

それが梅棹忠夫『文明の生態史観』という本なのですが、もとの論文の発表が1955年で、それ以来たびたび復刊されながら読み継がれてきたロングセラーでもあるのです。

私はこの『文明の生態史観』というタイトルだけは知っていたのですが、ようやく読む事ができて、しかも内容が素晴らしく、感銘を受けてしまったのです。

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さて、一般に、江戸時代までの日本は世界的に見れば文明の「後進国」で、明治になってヨーロッパやアメリカの近代文明を取り入れることで、徐々に先進国の仲間入りをして行った、とされています。

この様な歴史観に対し梅棹忠夫さんは、江戸時代までの日本は実は西ヨーロッパに並ぶ先進国だったことを指摘し、さらにその発展のメカニズムを『文明の生態史観』という新しい概念によって明快に説明してくれているのです。

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まず事実を申し上げますと、大航海時代以降のヨーロッパは世界各地に植民地を広げて行きましたが、アジアでは日本だけが植民地にならなかったのです。

そしてイギリスに端を発する産業革命はフランスやドイツなどの西ヨーロッパ、そしてイギリスの移民国家であるアメリカへと広がりましたが、アジアでは日本だけがそれを受け入れたのです。

その理由の一つは江戸末期の日本人は好奇心が旺盛で理解力が高く、近代文明の技術や社会システムをどんどん吸収し、自らのものにして行ったことが挙げられます。

日本に開国を迫るため浦賀に訪れたペリーも、日本人が好奇心旺盛なのを見て「他のアジア人と全く違う」と驚いていたのです。

もう一つの理由が、当時の日本の軍事力が意外に高く、他国が簡単に植民地化できなかったことが挙げられます。

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘(Wikipediaより)

実際に日本の薩摩藩とイギリス艦隊が一戦を交えた薩英戦争(1863年)では、薩摩藩が勝利してしまったのです。

もちろん最近式のイギリス艦隊に比較して、薩摩藩が装備した武器は劣っていましたが、巧みな戦術を駆使したことと、さまざまな偶然が重なって、紙一重ではありましたが薩摩藩が勝利し、イギリス側もその実力を認めざるを得なかったのです。

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なぜそのようなことが起きたのか?

それを梅棹忠夫さんは『文明の生態史観』の中で極めて合理的に、そしてユニークな視点で説明しているのです。

まず『文明の生態史観』に含まれる「生態史」という言葉ですが、英語でいうと「エコロジカル・ヒストリー」で、つまりエコロジーの歴史です。

そしてエコロジーの本来の意味は「生態系」で、つまり生物を「種」ごとに個別研究するのではなく、さまざまな生物種がお互いに関係し合いながら生存する「系」として捉える生物学的な概念を指すのです。

植物の遷移(Wikipediaより)

そしてその「生態系」の時間的な遷移(移り変わり)を研究する学問が「生態史」(エコロジカル・ヒストリー)であり、その概念を人類文明の研究に応用したのが『文明の生態史観』なのです。

梅棹忠夫さんはもともとは動物行動学のパイオニアである今西錦司の門下で生態学を学び、そこから興味が文化人類学へとシフトし、『文明の生態史観』を着想したのです。

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その考え方はジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』で示された「地政学」と非常に共通点が多いのですが、つまり両者とも人類文明の発展が不均衡なのは「人種や民族の優劣」によってではなく、人々が住む「土地の違い」によるものだとしているのです。

そして梅棹忠夫さんは、まず「ヨーロッパ」「アジア」「東南アジア」「中近東」など一般的な地域区分を考えから除外し、とりあえず「文明の発展史」の対象として「ユーラシア大陸と周辺の島国」だけを考え、それを「第一地域」と「第二地域」に二分してしまいます。

『文明の生態史観』より

そして、イギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパと日本を「第一地域」とし、それ以外を「第二地域」とします。

そして西ヨーロッパと日本とは、地理的にも文化的にもかけ離れているけれど、同じ「第一地域」として「平行進化」してきたという、かなり大胆な指摘をしているのです。


古代メソポタミア文明ウルのジッグラト

その理由を私なりにザックリと説明すると、まず「文明」が発生して最初に発展した地域はメソポタミア文明にしろインダス文明にしろ黄河文明しろ、「第二地域」の砂漠地帯であり、その意味で古代においては西ヨーロッパも日本も後進国どころか未開の地であったのです。

その最初に築かれた文明はどれも絶対王政により広大な地域が支配されるのが特徴でした。

と同時に砂漠の民はなぜか非常に凶暴で、政権が交代するたびに全てが破壊し尽くされ、一からまたやり直すという「破壊と創造」が繰り返される過酷な地域であったのです。


12世紀イギリスの建てられたワークワース城

対して「第一地域」である西ヨーロッパや日本は歴史的には遅れていて、「第二地域」の先進国から文明を輸入しながら徐々に発展して行きますが、「第一地域」から地理的に離れているためにその「破壊」の影響を受けず、文明を温存しながら発展し続け、やがて「第二地域」の文明を上回る先進国へと進化できたのです。


松本城

それと同時に西ヨーロッパ諸国も日本も「絶対王政」ではなく権力を分散した「封建制」を採用し、そのおかげで経済が発達し、それにより王侯貴族を上回る力を持つブルジョワ階層が生まれ、封建制を打倒する下準備ができて来たのです。

ただし日本は江戸時代に「鎖国という意味不明な政策」(梅棹忠夫さんの表現による)を取ったため海外への植民地政策を断念せざるを得ず、それにより経済発展が西ヨーロッパほど十分ではなく、自前で産業革命を起こすこともできなかった、としています。

しかしいずれにろ江戸末期までの日本は、西ヨーロッパとの「平行進化」がかなりの程度まで進んでいたのも確かで、産業革命を受け入れる準備は十分に整っていたのです。

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アヘン戦争でイギリスの軍艦に砲撃される清軍のジャンク船(Wikipediaより)

これに対して同時代の中国(清国)は、日本がお手本にしていた先進国であったはずなのに、実際には「古代文明」そのもののメンタルを持ち続けていたために西ヨーロッパ(第一地域)からの「近代文明」の「近代性」を理解できず、それを拒否したために戦争でイギリスに負け、植民地化されてしまったのです。

それはメソポタミア文明末裔であるトルコ帝国も、インダス文明の末裔であるインドのムガール帝国も同様だったのです。

ちなみに近代化に遅れを取った中国は、それを一気に挽回するため「共産主義革命」という荒技を使い「清国」から「中華人民共和国」へと生まれ変わります。

文化大革命中、寺院は取り壊され、仏像は燃やされた。


しかし実際の中華人民共和国を見ると、毛沢東の時代には「文化大革命」の名の下に大規模な文化破壊がおこなわれ、今もなお習近平による独裁政治が行われるという「古代文明」さながらの国家体制が、歴史的必然のように繰り返されるのを見ることができるのです。

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とはいえもちろん、『文明の生態史観』はあくまでザックリとしたものの見方で、具体的な歴史を見ればさまざまな例外や矛盾は認められるだろうと梅棹忠夫さんも述べていますが、同時にその「ザックリとした見方」こそが重要なのです。

そして、その意味で「西ヨーロッパと日本は共に文化を温存しながら平行進化してきた」というザックリとした把握がまずは重要で、それによって「ヨーロッパ美術史」と「日本美術史」の関係もより明らかにできるのです。