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産まれた日のこと。

僕が産まれた日
母は死の淵を彷徨った。
産後の肥立ちが悪く、血液を大量に失った母は輸血をした。
旧ミドリ十字製の血液製剤。
フィブリノゲン製剤は後に薬害問題に発展する混合血だった。
C型肝炎ウィルス。

産まれながらに僕は親の寿命を縮めた。
と、苦しんできた。
数年後表面的には快方に向かっていた母は当時付き合っていた男性との間に1人の子供を孕んだ。
母体は子供を産めるような身体ではなく、
子供は堕胎された。
僕の、弟か妹になるはずだった命。

僕が生まれながらにして奪った命の量としては2人目だった。

法律的には堕胎出来る段階の子供はひとりとは数えないらしい。
優生法の成り立ちがあるからだ。
けれども僕にはどうしてもそれが受け入れ難い問題だった。

肝炎の問題は僕が中学生の時に知らされたものだった。
母は発症はしていないが、いずれ肝機能に障害が出る可能性がある、と当時の僕は聞かされた。
僕は自分を責めた。
僕が生まれてきた事に、
どんな意味があるのか、と考えた。
1人で泣いたのだった。
その傍らで、そのような過ちを犯す社会が悪いのではないか、という考えもまた逃げ道としてあった。
当然それも考えた。
僕が哲学に興味を持ち出したきっかけは恐らくこの頃だったと思う。

命とは、
奪う命と奪われる命とは、
産まれてきた意味とは、
亡くなった命への償いとは。

あなたが消えたいと思った時間は、
誰かが生きたかった時間だよ
よく聞く言葉だ。
もっともな言葉で、当たり前の理屈だ。
それがどうした、というアンサーも道理だ。

しばらくぶりにこの話をするが、
僕の前垢、「倫人」が産まれたきっかけ、配信をするきっかけになったのは、
2020年2月18日に相鉄線瀬谷駅で電車に飛び込んだ自殺配信の女子高生だった。

配信という世界は命との繋がりが希薄であると同時にとても密接だと思う。
時折、ただ漫然と生きているだけでは考えない、
命というものについて考えさせられる瞬間がある。

綸は概念です、と何度も言ってきたのは、配信という世界を通じて命を観測する為でもあるし、
命を問う為でもある。

僕の根底には産まれてくるはずだった子について答えの出ない問いが常にあるし、
僕が産まれなければ、違った人生を送ったかもしれない母の命の時間というものがやはりある。

だから寺山修司の、
「亡き母の真っ赤な櫛を埋めに行く恐山には風吹くばかり」
という言葉が僕にはよくわかる。
母はまだ存命だが、
そして多元的に見れば褒められた親では無かったが、完璧な人間など、いはしないのだった。
それは自分をかえり見れば痛いほどわかる事だった。

答えのない哲学をきっと僕はこの先も問うだろう。
飄々と、可笑しそうに笑いながら、
話すだろう。
声を出すことに命を削るだろう。
それは偉いことでも凄いことでも褒められることでも可哀想でもない
ただ、そうしたいから勝手に僕がしているだけの事なのだ。

誕生日が今年も来るらしい。
僕が産まれた日。
雪が降っていたそうだ。

概念でも僕は受肉していてどうやら歳を取るらしい。
それは社会と繋がっている、ということらしかった。

まだ、雪は降らない。






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