DAY265 言葉はまるでコーヒーのようだ。

元々、言語化するのが得意だと思って生きてきた。小学生の時に地元の読書感想文コンクールで賞を獲り、中学生の時に廊下に張り出した学級新聞の記事を見た先生から『文才あるね』と言われた。その小さな体験もあって、作詞家になりたかったり、小説を書いてみたり、コピーライターに憧れたりもした。

言語化、というより、自分の中にある言葉をアウトプットするのが、人よりも容易いだけなのかもしれない。その抽出具合、濾し具合に関しては、あまり上手ではないのかもしれないな、というのが今の体感だ。

元彼さんは、言語化が苦手な人だった。多分だけど、感じることが多すぎて、それを言葉で表現しきれなくて、何も言えねぇ!になっているのかもしれない。それすら言語化されないもんだから、憶測に過ぎないけれど。

で、わたしは言語化の美しさについては、ほんとにヘタクソなんだなと思っている。下手な言語化は、何も言えねぇ!と口を閉ざしてるのとほぼ同類じゃないか!と。
それでも言葉にすることで、より良くしていくプロセスに進むことができる。

言葉はまるでコーヒーだ。豆を砕いて、抽出して、濾して、旨みだけを残す。豆の挽き方が粗かったり、抽出の温度やお湯の注ぎ方が下手だったり、フィルタが今ひとつだったりして、雑味がでたり旨みをのがしたりする。

わたしの言葉は、コーヒージャンキーみたいなものだった。とにかく何でもいいからコーヒーを淹れる!みたいな。美味しさとか温度とか、そんなことよりも、ただコーヒーを淹れることばかりに気を取られていた。

美味しいコーヒーを淹れるように、言葉を丁寧に紡ぎたいと思った。丁寧に事象を挽いて、適切な温度感で抽出して、愛のフィルタで旨みだけを残したい。
そう思うとこのnoteという場は、わたしにとってカフェのような存在だ。美味しいコーヒーを飲んでいただけるように、丁寧に言葉を紡いでいこう。

毎日noteは残り100日くらい。あと100杯ほど、美味しいコーヒーを淹れるように気持ちを切り替えて心を込めてゆく所存!

そんなことを誓う天赦日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?