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コピーライターの先生に言われたことば

ずっと以前、たしか21歳の頃、わたしは宣伝会議のコピーライター養成講座に通っていた。大学在学中に姉に勧められてなんとなく受講することにしたのだ。
いろんな年上の人がいて面白かった。
みんなが本気でことばを練っている熱量みたいなことを覚えている。
けれど、わたしはどこかそこに自分の内側からコミットできなかった。
金のえんぴつも何本かいただいたけど、今思えば水族館を眺めるように参加していた。もしかしたら逃げのようなものがあったのかもしれない。
広告のコピーという、自分の中にないことばを考えることがむずかしかった。
リアリティーがないものをどうしたら出せるのかと悶々としていたことを覚えている。

講座は終わったた後に講師の人と恒例の飲み会があり、わたしも時々参加していた。
ある有名なコピーライターの方に言われたことばがいまだに小骨のように突き刺さっている。

「君は自己完結してるね」

どういうことなのかわからなくて、ただわからないまま笑って過ごしてしまった気がする。
「自己完結しているってのはどういうことですか。どんなところがそう感じるのですか」
と、今ならそう聞けるのだけど、その時のわたしはまだそんなことばすら知らなかった。

改めて、自己完結の意味を引いてみる。

何かの物事について、自分自身の中だけで納得したり決着したりしているさま

もしかして、自分が心の中で思ったことをそのまま先生に聞けたとしたならそれは、自己完結にならなかったのかもしれない。

何をしていても変わっていると言われ続けてきた子ども時代だった。
自己完結について思うことは、これ以上誰にも否定されたくないという意のあらわれだったのかもしれない。
これ以上変わった人でいたくないという傷をカバーしていたのだろうか。
だれかに何か言われることが怖かったのだろうか。

話は現在に戻る。
去年からお香を作りはじめた。
自分で作ったお香を手渡していきたい。
そう思う時、同時にそのハードルを自分がどんどん上げようとする自分がいる。
もっと上手くならなくてはいけない。
もっともっと。
そうしているうちに自分の中だけで完結してしまいそうとふと思った。

「君は、自己完結しているね」

ふとこの言葉がよぎる。
なかなか、厳しいことばだ。
でも、わたしは自己をひらいて届けていくことを選択しようと。
その方をみようと綴りながらおもう。

小骨のように突き刺さっているものはきっと私じゃないと取れないのだ。
そして、取るためには
不完全なわたしのまま
今できるベストを手渡していくこと。
信頼して、委ねていくこと。

このことばに向き合って、今日はちょっとほっとしている。