『The Life of Cesare Borgia チェーザレ・ボルジアの生涯』ラファエル・サバチニ著(1912年初版刊行)序文
序文
これは聖人たちの年代記ではない。悪魔の歴史書でもない。欲望にまみれた、絢爛たる時代。血によって赤く、白熱する激情によって青白く染められた時代。鋼鉄と色鮮やかな天鵞絨、まばゆい光と一寸先も見通せぬ影の時代。迅速な行動、無慈悲な暴力と高い努力の時代であり、鋭い対比と鮮やかな対照の時代。これは、そのような非常に人間的で激しい時代を生きた、非常に人間的で激しい人々の記録である。
今世紀という、冷静で、慎重かつ品行公正な――我々が自認する処によればであるが――立脚点から、これに評価を下すのは、落ち着いた中年の観点から、大きな過ちを犯しながらも大きな成功を収めた若者の、無謀で、熱く、激しく、欲望に満ちた青春期の情動を評価するに等しい。
ゆえに、そのように特異な時代を一括りにして評価を下すのは明らかな間違いであり、この時代を理解し共感すること、つまりは若者の愚かさを認識しても寛容に受け止めて共感を示せる大らかな心を持った年齢になるようなことが目的ならば、絶望的な手法である。人生は儚い営みであり、我々は自分たちの研究を追及するような未来の時代から我々自身が受け入れられるには、どこを受け入れれば適切と思われるであろうかを判断することに、あまりにも多くの時間を浪費している。
しかし、過去のある特異な時代を我々の時代基準によって一括りに評価するのが誤りだとすれば、個々の人間を彼らが生きていた環境から切り離し、我々の時代基準によって評価するのも同じ程度に誤っているのではなかろうか?かようにして得た彼ら個人に対する認識は、如何に誤ったものであろうか!我々は、そのように選び出した個人を現代の焦点に合わせた顕微鏡で観察する。彼らは怪物的で異常なように見え、我々は一足飛びに彼らを怪物や異常者と思い込むが、しかし、問題は彼らを検査するために使用した器具の調節にあり、それが修正されるまでは、同じ時代の他の人々もまた、同じように歪んで見えるであろうということには決して思い至らない。
したがって、研鑽の末に得られるのが理解力であるとすれば、特定の時代に関する研究が、常にその時代における個々人の研究に先行し、また付随して行われる必要があるということになる。そうでなければ、ホッテントット(南西アフリカの遊牧民族)や南洋諸島の人々を、ベルグレービアやメイフェアで身に着けた習慣で判断してしまうだろう。
精神は魂の座であり、文学は精神の表現であり、だとすれば、文学とは時代の魂にして、その時代からの生き残りであり、不滅の部分であるといえるだろう。そして読者は1500年代文学の中に、この情熱的で、不道徳で、純真なルネサンスの魂を、大の字になった元気一杯な裸の幼児が知識やその他諸々の乳を求めて貪欲に泣き叫ぶ姿を見ることになるはずだ。読者はこの幼児の情熱的な気質の一部を察するだろう。彼の嵐のような歓喜、彼の猛烈な怒り、彼の純朴、彼の純真さ、彼の探究心、彼の狡猾、彼の欺瞞、彼の残酷、太陽の光やきらびやかな装飾品への愛を。
彼をありのままに理解するには、これがジョヴァンニ・ボッカッチョの『Decamerone デカメロン』、ポッジョ・ブラッチョリーニの『Facetiae 痴話集』、フランチェスコ・フィレルフォの『Satires 風刺集』、パノルミターノの『l'Hermaphroditus ヘルマプロディトス』が男女問わず多くの読者を獲得した時代だったと考えるだけでよいはずだ。この時代には、学識豊かで博識なロレンツォ・ヴァッラ――彼については後で詳しく触れるが――が、有名な処女性に対する告発を書き、最も狡猾な論理を用いながら、それを自然に反するものとして非難している。これはベネヴェント大司教のジョヴァンニ・デッラ・カーサが性愛哲学の特異な著作を執筆した時代でもあり、聖職者の筆によるこの書をひもとく機会を得た者は怖気をふるうに違いない。これは人間発見の時代であり、キリストから神性を剥奪してプラトンに与えた異教の時代でもあったので、マルシリオ・フィチーノは――当時の多くの学者と同じく――その教えに従うギリシア人の絵姿を前にして実際に祭壇灯を燃やし、智慧を得ようとした。
この時代には、教会の聖人と町の娼婦の功績との区別がつかなくなっていた。それゆえに両者を同じように称賛し、一方の肉欲的な功徳を、他方の精神的な功徳を讃えるのとほぼ同じ言葉で讃えたのである。1511年、26歳の若さで世を去った有名なローマの高級娼婦は、盛大な葬儀を執り行われ、サン・グレゴリオ聖堂に立派な墓が与えられて、次のような碑文の刻まれた石板が安置された。
要するに、不道徳という言葉で表現する余地もないほど、普遍的に不道徳な時代だったのである。なぜならば、不道徳とは特定の時間と場所で獲得された道徳からの逸脱と定義できるからだ。我々自身の立場から包括的に見れば、1500年代は、甚だしく放埓で不道徳な時代であるが、1500年代自身の立場から見れば、公正な判断のもとに不道徳の烙印を押されるような個人はほとんどいないだろう。
残りはといえば、騎士道時代からの反動の時代であった。際限ない贅沢の時代、外見上の美しさへの崇拝と賛美の時代、内なる美徳、真実や名誉などは重んじられぬ時代であり、回避する機会さえあれば不都合な契約は守るべきではないという原理原則が自明とされた時代であった。
1500年代の歴史とは、破られた誓約、背かれた信頼、卑劣きわまりない裏切りによって展開された歴史である、読者はここに記された物語をさほども読み進めぬ段階で、そのように結論するであろう。
放蕩の時代に、放蕩者以外の何を探せばいいのだろう?このような環境から個人なり一族なりを取り上げて後世の規範で評価することは、正しかったり、合理的であったり、誠実であったりするといえるだろうか?だがしかし、それはボルジア家という広大な主題を扱う際に、最も頻繁に採用されてきた方法ではないだろうか。
そのような誤りに陥る危険を避けるために、本書ではこの一族の歴史をカリクストゥスⅢ世の聖座への昇格とともに取り上げることにする。そして、ロデリーゴ・ボルジア――アレクサンデルⅥ世として在位――の前任者である四人の教皇の治世をひと通り見渡してみることで、本書の真の主題である人物とその一族を判断するための基準が設定されるだろう。
この驚くべき教皇アレクサンデルの歴史は未だ書かれていない。ここでそれを書き尽くそうと試みてもいない。だが、それでも本書の中では彼に関する記述にかなりの紙幅を割く必要があった。なぜならば、彼のまばゆい輝きを放つ流星のような息子の歴史は彼自身の歴史と極めて密接に絡み合っており、一方の歴史にかなりの分量を割かずに他方を紹介するのは不可能だからである。
ボルジア家の歴史がどのような史料から取捨選択されてきたのかについては、この序文では論考しない。それらはあまりにも数が多く、その正確な価値と信憑性の度合いを確認するには、あまりにも厳密かつ個別的な考察が必要だからである。本書においては、このような検討が歴史の歩みに応じて頻繁に行われ、一方に有利な証拠、あるいは他方に有利な証拠を引用する必要が生じた場合には、その証拠は厳密に精査されるものとする。
恐らく、ボルジア家とその歴史に関しては、ロードン・ブラウンが『Ragguagli sulla Vita e sulle Opere di Marino Sanuto マリノ・サヌートの生涯と作品に関する情報』で書いた次の一節ほど、真実を言い当てたものはないだろう。
そのために必要な資料は入手が容易く、そしてそれらは、同時代を生きた半ダースの教皇たちの歴史を編纂した資料と顕著な違いはないが、しかしボルジア教皇の場合、彼らのものよりもはるかに豊富に、必要以上なまでに存在する。これはボルジア教皇が、その政治的勢力としての重要性ゆえに他の教皇たちよりもルネサンスの背景事情から引き離されているという格別の理由からなのである。
ここに、たとえ度を越した贅沢な習慣があったにせよ、ボルジア教皇が盛大に中傷文や風刺を書かれてもやむなしとされた理由があった。彼とその息子チェーザレに関連する中傷は易々と広まったが、それらの発信源は大半がボルジア家の権力に最も嫉妬と憤りを感じていた国々――ヴェネチア、フィレンツェ、ミラノであったことが判明している。
政治的な恨みほど根深いものはない――恐らく、宗教的な恨みは別としてだが、この点については後に触れることになるだろう。また、政治的な戦いほど無節操かつ陰湿な中傷兵器が使用されやすい戦争はない。これは現代にも顕著な事例があり、わざわざ解説するまでもないほどだ。そして、我々の穏やかで節度ある時代に流布している中傷の形から、慎みも自制も知らぬ激しい時代に政敵が何を言うかは想像できよう。これらはすべて、適切な場所で、更に詳細な検討をすべきである。
ボルジア家のものとされた罪の多くには、いくつかの証言が存在するが、それ以外の多数の罪――これらは強姦や殺人、姦淫、近親相姦、そして平原の都市(ソドムとゴモラ)の罪のように、より凄惨で煽情的かつ、おぞましい表装をされている――については、信ずるに足る証拠は一欠片も出てこない。実際の処、今日においてボルジア家の罪に関しては、もはや証拠は必要とされていない。頻繁に繰り返される主張が証拠の占めるべき位置を簒奪した――幾度も繰り返された嘘というのは、その作り話の発信源である当人までもが本心から信じるようになってしまうからだ。その間も中傷は舌から舌へ、ペンからペンへと飛び交い、それが広がる先々でまた噂の材料を集めていく。世界は物語を取り込み、旺盛な食欲で貪り喰らうので、話はよりセンセーショナルになり、そういったことを充分に心得ている作家たちは、このボルジア家という主題を利用し、数世紀にわたって病的な食欲に迎合し続けてきたのだ。刺激的で興味をそそるスパイスを効かせた悪徳の絵空事、道徳的堕落と肉体的退廃のおぞましき作り話、恐ろしく忌まわしい行為に関する身の毛もよだつ巷説――こういったものが煽情屋の商売道具なのである。このような輩は、自分が販売する商品の真相にはおかまいなしだ。「Se non é vero é ben trovato(まことにあらず、まことしやかな思いつき也) 」というのが彼らのモットーなのだが、より正確には、煽情屋というのは――時代を問わず――内心、それが真実であってくれと望んでいる。連中は必ずそのようなそぶりを見せるのだ、信じてくれていい。なにしろ、商品の信憑性に傷がつけば、センセーショナルな価値が九割がた減じてしまう。そこで彼らは自分の商品をトリミングしたり調整したり、少しばかり色を足してみたり、覗き趣味による捏造を誤魔化して、本物らしい雰囲気を高めるのに必要と考えたものを付け加えていくのである。
ある種の催眠術のようなものは、その主題の研究にも付きまとう――これほど積極的に繰り返し語られていることならば、必然的に真実に違いなく、いずれ確たる証拠によって事実と証明されるに違いない、という暗示である。あまりにも多くのことが常識化している――おそらくは暫定的な仮説として存在を始めた事柄、それらが、いつの間にやら確立された事実へと発展しているのだ。
時折、ボルジア家の歴史に関する記述中に、諸々の行為を総括した次のような一文を目にすることがある。 「未だ多くの謎が残されているが、歴史の評決はチェーザレ・ボルジアに罪ありとしている。」
見よ、立証の省略が如何に容易なることか。汝の絵空事に塩気とスパイスを効かせるために、証拠として無花果をひとつ!つじつまの合わぬ箇所があちこちにあったり、矛盾や欠陥、疑問の余地が生じた時には、その間隙に歴史の評決とやらを投げ込んで質問者の口をふさいでしまえ。
この点については、今日、公正かつ誠実な仕事をするつもりでチェーザレ・ボルジアの歴史を執筆しようとする者は、これを平易かつ明快に物語ること――メロドラマの悪役でも、馬鹿馬鹿しくグロテスクで現実離れした怪物でもない、冷酷で、非情なエゴイストであり、己の目的のために他者を利用し、その報復は恐ろしく、裏切りも辞さなかったのは事実であり、豹のように素早く、怒りに駆られた場面では容赦なく行動したが、それと同時に偉大な要素も備えており、優れた軍人にして比類なき為政者、その裁きが無慈悲なものにせよ卓越した正義の人であった、そのようなひとりの人間として彼を紹介するのは不可能であると気付かざるを得ないところまで問題は進行している。
今の世にチェーザレ・ボルジアをそのような平易で明快な物語として表現すれば、かの著名なるドイツの学者、フェルディナント・グレゴロビウスや、そこまで有名ではないものの、真面目な検討対象とされる程度には名の知られている作家たちの本で彼を知った人々の軽蔑と嘲笑を買うことになるだろう。それゆえ、これらの権威ある研究者の成果を精査し、その研究成果に対する信頼すべき批判を提示する必要があった。筆者は、この作業の厄介な性質を嫌というほど意識しているが、しかし、この話をする以上、それが避けられぬことも同様に認識している。
歴史的事実の具体的な出典は、この語りの中で検討していくことになるが、後になってしまえば言及する機会を失うので、この段階でボルジア家に関する世間一般の概念が何所から来ているのかを検討しておくのも良いかもしれない。
ここで論ずるまでもなく、歴史冒険小説というのは、しかるべき者が手がけさえすれば、これまでも、そしてこれからも、文学芸術において最も得難く貴重な表現のひとつであり続けるであろうと明言できる。しかし、それを実現し、維持するには、作家に許される自由には明確に定義された制限を設ける必要がある。その執筆態度は誠実なものでなければならない。まず事実に即した印象を形成し、次にそれを伝えるために、表現しようとする時代に関する、しっかりとした綿密な調査による下準備を行わねばならない。かように、小説というものが如何に他の形式の文学よりも広範囲に影響が及ぶかを考慮すれば、このような努力の先に素晴らしい結果が待っていることに疑問の余地はない。その怠慢――語り手の目的に合わせた登場人物の歪曲、歴史的事実に関する同様の歪曲、調査不足による重大な時代考証の齟齬などは、歴史冒険小説の評判を落とすのに大いに貢献してきた。多くの作家は、率直に言って、歴史的正確さを目指しているようなふりはしていない――少なくとも、そのように識別できるようなものはない。だがその一方で、自分の著作に上辺だけの学術性を帯びさせ、自分が採用した解釈を裏付けるために、わざわざ典拠からの引用までする作家もおり、それらは多大な努力を要する学問研究の結実として読者の前に並べられるのである。
こういったものは非常に厄介であり、その典型がヴィクトル・ユゴーの有名な悲劇『Lucrèce Borgia リュクレース・ボルジア』、おそらく他のいかなる作品よりも(アレクサンドル・デュマの『Crimes Célébres 有名な犯罪』における「Les Borgia ボルジア家風雲録」を除けば)、チェーザレ・ボルジアの妹について今日広く普及している一般的な概念の源流となっている。
なんであれ、個人や時代の歴史について、度を越した自由をほしいままにした一本の名筆が源となり、これほどまでに粗雑でメロドラマじみた馬鹿々々しさと、目に余るような信じがたい歴史考証の誤りが豊富に含まれたものが垂れ流された例がかつてあったであろうか。ヴィクトル・ユゴーは稀有な才能に恵まれた文筆家であり、豊饒なる物語作家にして偉大なる詩人でもあった。そして、その両者に許された芸術的自由を最大限に利用したからという理由で彼を非難するのは、理にかなわないかもしれない。とはいえ――『Lucrèce Borgia リュクレース・ボルジア』の中で――彼が学者気取りのポーズをとって、自分の作品は史実の調査に基づいた誠実なものであるかのように装い、それを主張し続けたという罪状で厳しく告発しようとしても、それはきっと難しいはずだ。このようなハッタリを駆使して、彼はフランスと全ヨーロッパの無教養な大衆を騙し、自分の悲劇の中に真のルクレチア・ボルジアが登場すると信じ込ませてしまったのだ。
「私を信じぬというならば」と、彼は次のように表明した。「トンマソ・トンマシを読め、ブルカルトの日記を読め」
では、1483年から1506年までの23年間にわたって記された、ヴァチカンの典礼司祭の日記(これは現在の歴史学の基礎に大きく寄与している)を読んでみよう、すると読者が必然的にたどり着く一つの結論は、ヴィクトル・ユゴー自身はこの日記を読んだことがない、もし読んでいるならば、自分が執筆した内容を一行たりとも裏付けていない文献を紹介することに躊躇するはずだ、というものになる。
トンマソ・トンマシについては……嗚呼、半可な知識は怪我の元!他者を感心させようとして知識をひけらかす者が引きずり込まれるのは、如何なる泥沼であろうか!
トンマシの歴史家としての位置付けは、アレクサンドル・デュマとまったくの同次元だ。彼の『Vita di Cesare Borgia detto il Duca di Valentino チェーザレ・ボルジアの生涯』は、これをタネ本にして創作された『Les Borgia ボルジア家風雲録』と同じ史実レベルにある。『Crimes Célébres 有名な犯罪』と同様に、トンマシの本は真面目な実録のような雰囲気を漂わせているものの、『Crimes Célébres 有名な犯罪』と同様、虚構であることに変わりない。
このトンマソ・トンマシは本名をグレゴリオ・レッチ――現在復刻されている彼の作品は、この名前で出版されている――といい、17世紀における最も多作な作家であったが、カルヴァン派に転向してからは、教皇庁と自分が離反した宗教に対する憎悪を己が著作の中に吐き散らすようになったのである。『Vita di Cesare Borgia detto il Duca di Valentino チェーザレ・ボルジアの生涯』は、1670年に出版された。この本はかなりの人気を博してフランス語に翻訳され、多くの物語作家や一部の『実録』作家が、ボルジア家に向けた連綿たる誹謗中傷を絶やさぬための後続作品において参照する主要な情報源となった。
歴史とは、神の裁きと同じく厳然たるものであらねばならない。事実と認める前に証拠を探し、証拠が得られたならば、それを分析するのみならず、証拠の出所自体を可能な限り調査して、どの程度の信憑性があるのかを可能な限り確認することが必要である。ボルジア家に関する歴史研究において、我々は幾度も、到底信じられない領域まで頻繁に達し、時にはそれを踏み越えて、不可能にもほどがある次元に至るような事柄を、あまりにも疑うことなく受け入れ、あまりにも当然のように考えてきた。
程度の差はあれど貴重な記録を残した数多の者たちの中で、おそらくは、同時代の誰よりもチェーザレ・ボルジアをよく理解していた人物がいる。というのも、彼の知性はこの時代で最も鋭く、イタリアと世界においてこれまでに知られている中で最も鋭敏なものであったからだ。その人物とは、フィレンツェ共和国の書記局長、ニッコロ・マキャヴェッリ。彼はチェーザレに何の恩義もなく、ボルジア家に対して常に敵対的な勢力の大使であった。それゆえに、彼の判断がチェーザレ贔屓のバイアスで歪んでいたとは到底考えられない。にもかかわらず、彼はチェーザレ・ボルジアを――これから見ていくように――理想的な征服者にして統治者が具現化された存在とみなし、チェーザレ・ボルジアを手本として、弱虫なジュリアーノ・デ・メディチに統治術を説くための国政術の教科書、名著『Il Principe 君主論』を執筆したのである。
マキャヴェッリはチェーザレ・ボルジアに次のような裁定を行っている。
マキャヴェッリがチェーザレ・ボルジアについて他に何を語ったか、また彼が目撃したチェーザレ・ボルジアの経歴にまつわる出来事に関して何を報告しているかは、適切な場所で検討されるべきだろう。
前述したマキャヴェッリによる評価の摘要は、『Il Principe 君主論』の手本となったチェーザレ・ボルジアの紹介を目的とする本書の執筆について正当性を示すために、とりあえず提示したものである。
だが、それより先に、まずはボルジア家の興隆をたどる必要があり、四部構成とした本書のうち最初の二部では、息子ではなく、その父であるアレクサンデルⅥ世が舞台の中心に立つことになる。
筆者から批評家諸氏に求める容赦があるとすれば、それはボルジア家を――俗にいう処の――『ホワイトウォッシング(汚点を隠ぺいして体裁を整える)』することを明らかな目的として着手したという罪を、私に負わせるのは勘弁願いたいということだ。ホワイトウォッシュするというのは、つまりは重ね塗りすることであり、上塗りによって元のカンバスを覆い隠すことである。既にして、あまりにも分厚い上塗りがほどこされているのだ。お望み通り、そのすべてをはぎ取らせていただくとしよう。煤は払われるだろう、そして推量や憶測、作為による腐臭を放つ汚れと、何世紀にもわたって、くだらない、空想的で、煽情的な、あるいは打算的な売文屋たちが既知の事実の本質を覆い尽くしてきた冷酷な悪意もである。
しかし、その汚れは保存され、元々の絵の具と並べて分析され、前者を取り除こうとする熱意によって後者も削り取られた部分に含まれているか否かを判断することができるだろう。
謝辞と参考文献
筆者は以下に列記した文献、とりわけ本書で取り扱う歴史を目的とした研究に感謝の意を表明する。
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訳註
※インペリアは当時ローマの人気者だった高級娼婦(一般的な売春婦というより、VIP専門のコンパニオンとかプロ愛人業のような立ち位置)で、
と謳われたほどの美女。彼女の源氏名である Imperia は「帝国」の語源と同じ単語の女性名詞化なので、「至上の女」のようなニュアンスになるだろうか。
※ロードン・ラボック・ブラウンは、1806年英国生まれのアンティーク収集家、イタリア史研究者。
※ a fico for はシェイクスピアの時代からあるクラシックな侮蔑表現。ちっぽけで無価値な果実ひとつの値打ちしかないもの、というような意味合い。
※ヨハン・ブルカルトはアルザス生まれの聖職者。シクストゥス Ⅳ 世~ユリウス Ⅱ 世時代の教皇庁で典礼司祭を務め、その期間の詳細な記録を残している。
※フェルディナント・グレゴロビウス、グレゴリオ・レッチについては以下の記事内の解説を参照のこと。
解説
中部イタリア、イエージ生まれのラファエル・サバチニは作家としてのキャリアの前半ではボルジア家全盛期のイタリアを舞台にした作品をいくつか執筆しています。
1907年(明治40年)の"Love-At-Arms"は、チェーザレ・ボルジアの侵攻に対抗する同盟のために意に染まぬ政略結婚を強いられたウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの姪が少ない手勢と共に籠城、城内の内通者に苦慮しつつ脱出を図るというお話。チェーザレ本人は登場しません。
1908年の"The Shame of Motley"はルクレチア・ボルジアがジョヴァンニ・スフォルツァに嫁していた頃のペーザロ宮廷を舞台にしたジュブナイル冒険活劇(ジュリエットの仮死薬なんかが出てくるリアリティライン)。二部構成で第一部第一章が"THE CARDINAL OF VALENCIA"、第二部最終章が"AVE CAESAR!"という章題になっているのでも察しがつくように、最初と最後にそれぞれ枢機卿時代・軍人時代のチェーザレが颯爽と登場して強い印象を残しております。
そしてまた、本作に登場するルクレチア・ボルジアは、ヴィクトル・ユゴーやアレクサンドル・デュマによって定着していた「淫蕩で残酷な悪女」の印象とはかけ離れた、当時としては非常に斬新な解釈で描かれています。
現代日本の創作ではスタンダードになっている、「父と兄の野心に翻弄されながらも、当人はあくまで少女のように清純で心優しい悲劇の貴婦人」という解釈のルクレチア・ボルジアがエンタテインメントに登場したのは、(断言はできませんが)これが初めてなのでは。
これら長編と並行して雑誌に寄稿していたボルジアもの短編をまとめた単行本が、1912年(大正元年)"The Justice of the Duke"。
そして連動企画(?)なのか、同年に刊行されたのが、本格的なチェーザレ・ボルジアの評伝 "The Life of Cesare Borgia"。小説のネタで小出しにするより史実をそのまんま書いた方が面白い!という思いからなんでしょうが、世間的に評価が高くなかったり悪人とされている歴史上の人物をガチで愛している歴オタの、推しに対する情熱と無理解な世間への怨嗟を華麗でドラマチックな文体で描き上げたすんごい本に仕上がっています。
("The Shame of Motley"の段階で既に主人公の回顧という形式を借りてフランチェスコ・グイチャルディーニやユリウスⅡ世のルクレチアに対する中傷をディスりまくってましたからね……)
両親共にオペラ歌手だったサバチニ先生にはドニゼッティの歌劇『ルクレチア・ボルジア』とその原作であるユゴーの戯曲は子供の頃から馴染み深いものだったでしょうし、後に史料をあたって、それが事実無根の創作だったのを知り「ユゴーの野郎、デタラメ吹きやがって……!」となった心情はよくわかります。
"The Life of Cesare Borgia" 初版刊行時点のサバチニ先生は未だ固定ファン相手に堅実な商売をしている中堅作家くらいのポジションだったので、本作がどれ程の影響を与えたのかは不明ですが、1915年の『シー・ホーク』、1921年の『スカラムーシュ』、1922年の『海賊ブラッド』という国際的ベストセラーを立て続けにかっ飛ばして一躍人気作家になり、過去作品も続々再刊、1924年(大正13年)に増補改訂して再出版した "The Life of Cesare Borgia" は結構な数の人目に触れたはず。
まあ、翌1925年に上演したサバチニ脚本の戯曲"The Tyrant" が批評家から「こんなのチェーザレ・ボルジアじゃない」と批判されてサバチニ先生がブチ切れてたあたり、即効性を期待するのは無理な相談なのですが、「サバチニ版チェーザレ像」が徐々に徐々にチェーザレ・ボルジアの一般イメージに浸透していった末の現在があるのだと思います。
推しのイメージを好転させたいなら、お前自身が良い作品で世に問え、というサバチニ先生からの教訓でした。
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