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The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第一部(6)手押し車

Ⅵ 手押し車

 革命暦第Ⅱ年雪月ニボーズ30日、キリスト教暦でいえば1794年1月19日、それはショーメットによって指定されたシモン夫妻のタンプル塔からの退去日だった。そしてショーメットは、彼に代わる新たな教育係は必要ないとの決定を下していた。彼はコミューンに説明した。少年の指導は既に十二分に行われた。それを延長する事は国家資源の無益な浪費である。コミューンの議員から毎日四名が当番委員として監守し、その内二名が二十四時間毎に交代する、それ以上は必要ない。

 充分な根拠のある提案は諸手を挙げて賛同され、そしてラサールの仕掛けは順調に稼働し続けた。既にマリー=ジャンヌは計画に引き込まれていたが、彼女を動かしたのは金銭よりも、その粗野な外被に包まれた母性的な魂の素朴な優しさによる処が大きかった。

 1月19日の午後、解け始めていた雪に霧と小雨が加わった日、シモン夫妻はタンプル塔で荷物をまとめる作業に追われていた。

 内親王殿下マダム・ロワイヤルは、その幽閉時代最後の数週中に書きとめた回想録メモワールの中で、執筆時から約二年前にあたる問題の日に、彼女と叔母のマダム・エリザベートが階下からの異常な音を聞きつけ、其処から推測した結論を――奇妙にも正確な結論を――記している。すなわち、ルイ=シャルルが塔を去ろうとしているという結論である。物音にじっと聞き耳を立てるのは、この不幸な婦人たちの習慣になっていた。それは壁の向こうの世界で何が起きているのか、とりわけ階下の部屋にいる小さな王の挙動について、多少の判断材料を与えてくれたのである。最初に彼が家族から引き離された日――1793年7月――から、しばらくの間、彼女らは突然会えなくなった母を求めてすすり泣く少年の声を聞いた。幼子は熱烈に母を、己の意図せざる嘘が断頭台に送る手伝いをした母を、心から愛していたのだ。だが、そのように心を痛めている様子をうかがわせてから程なくして、幸いにも幼い心はふさぎ続けてもいられずに自分自身を慰めたようであった。何故なら彼女らには、少年が足を踏み鳴らし、叫び、部屋中を駆け回って遊ぶ物音が聞こえたからである。そして二人は、少なくとも彼が既に泣き暮らしてはいないのだと考えて、幾分か安堵した。しばらくすると、彼女たちは少年が新しい教師から教えられた下品な革命歌を歌うのを聞いた。『ラ・マルセイエーズ【註1】』、『ラ・カルマニョール【註2】』、あるいは、より下品で酷い『サ・イラ!【註3】』。彼は『サ・イラ!』を好んだが、それは革命の文句と、彼が昔から親しんでいたメロディとが組み合わさったものであるからだ。この陽気な対舞曲コントルダンスは、ベルサイユでの輝かしい日々――今となっては記憶の中の単なる幻影に過ぎないが――に、マリー=アントワネットがしばしばクラヴサンで演奏したものだった。時が経つにつれ、そして再教育が進むにつれ、彼は更に騒々しくなっていった。階上の聞き手たちに推測する術はなかったが、少年が姉王女たちを身震いさせた革命歌をわめき散らしたのは、無理強いされて飲み過ぎたワインの影響によるものだった。少なくとも、彼は不幸でも虐待されてもいなかった。彼は衣食住に関しては不自由なく、ちょっとした要求ならば気前良く叶えられた。彼が欲しがれば玩具が与えられ、ふざけ回るのに飽きた時には子供に相応しい内容とは思えぬ本が、そして革命にちなんだ図案のトランプも与えられたが、そのキングやクイーンが共和主義の英雄たちに換えられていたのは言うまでもない。

 この日――運命の1月19日――、乗馬ごっこを行なう際に、ほうきの柄にまたがるよりも想像力が満足させられるようにと、彼は大きなパルプボード製の馬を与えられる事になっていた。

 しかし玩具おもちゃ屋の使いがタンプル塔の入り口まで恐ろしく大きな馬を乗せた手押し車を転がしてきたのは、そのじめついて霧の濃い夜の8時を過ぎてからだった。この汚れた顔の使者、カルマニョールに木靴、兎の毛皮の帽子を目深まぶかに被り、底冷えがする空気から身を護る為に毛織りのスカーフで鼻までおおった男は、ラサールであった。彼の挙動は、その外見にふさわしいものだった。喧嘩腰で不機嫌な様子の彼は、入口で衛兵に止められると、配達が遅れるじゃないかと口汚く罵った。

「一晩中下らねぇ質問責めにして、俺をここで凍えさしとくつもりか?あったかい詰所から、半分凍えた哀れな男をいびる為にお出ましかよ、ありがてぇこった。俺が何を運んできたのか、そっから見えねぇか?俺の行き先くらい、聞いてねぇのかよ?あの甘ったれたカペーの餓鬼に、玩具おもちゃを配達しに来たんだよ。みぞれの中を2マイルも、えっちらおっちら大荷物を転がしてきたんだぜ、こんな用事でよぉ!これが愛国者にやらせる仕事かってんだ!」彼はそう罵り、唾を吐いた。「そしたら今度は、ここに突っ立ってるせいで足が凍りそうだってのに、クソ忌々しい貴族野郎が威張りくさって、どうでもいい質問を根掘り葉掘りだ。うざってぇったら、ありゃしねぇ!てめぇら衛兵も、アレなんだろ――クソッタレの専制主義者なんだろ。そんな青いコートやゲートルくらいじゃ騙されねぇぞ。国王の手先が!」

 衛兵たちは、彼が不平を言う口調を真似て不機嫌ぶりを散々からかった末に、ようやく鉄格子を開いた。依然として不平を並べながら出入り口を通ると、彼は中庭を横切り、少し前までは故王の弟であるアルトワ伯爵【註4】の邸宅であった、テンプル騎士団の城を通り過ぎ、ミニチュア公園の木々の間を抜け、帽子形の蝋燭消しのような形の屋根を持つ複数の小塔を伴った、テンプル騎士団のかつての「ドンジョン」、もしくは主塔である厳しくそびえ立つ大塔まで、手押し車を転がしていった。

 その大塔の足元の扉は開いており、其処から暖かな光の斜方形が霧雨の降りしきる薄闇に投射されていた。中からは、陽気な人声とグラスのぶつかる音が聞こえてきた。

 入口の前に手押し車を残して、ラサールは玄関から奥へと騒々しく音を立てながら進み、当番委員たちがよろしくやっている大きな会議用ホールの開け放された出入り口に、喧嘩腰な様子でやって来た。シモンの方はといえば、前もって決められた計画通りに、義務に従ってやって来たばかりのコミューンの紳士たちと送別の一杯を交わす為、地下室から二本の瓶を取って来た処だった。其処は40フィート四方の正方形の会議室であり、中央の柱の先には円形天井の相交わる穹稜きゅうりゅうがあった。その柱の近くには、蝋燭の炎で作られた島が薄闇の大海の中に浮かび、五人の男がテーブルに集っていた。その男たちはシモンと四名の監視委員だったが、その四名の中には、以前ここで監視役を務めた経験のある者も、王の外見を良く知る者もいなかった。この点については、ショーメットが既に確認済みであった。

「おい、アンタら!」

 怒気のこもった呼びかけに振り返った彼らは、横木の下に立つラサールの姿を認めた。

「取次ぎくらい居ねぇのか?アンタら忌々しい貴族野郎が飲んだくれてる間、俺は雪ン中で、霜焼けになるまで立ちん棒かよ?」

 体格の良いシモンが一団から離れてやって来た。「はいよ、はいよ!今行くよ!そうカッカしなさんなよ、な?そりゃそうと、一体全体、何処のどなた様だい?ロシアの皇帝ツァーリか、それともイングランドのジョージ王かい?何の用で来なすった?」

「馬だよ、玩具おもちゃの馬、くたばった専制君主の我侭な糞餓鬼の為に運んできたんだよ」

「なんだ、あれかよ!」シモンは拍子抜けしたような口振りになった。「三階に持ってってくんな。三階だ。俺の女房がいるからよ。アイツが見てくれるはずだ」

 彼が仲間の待つテーブルに引き返すと、ラサールは不平を言いながら出ていった。それから男たちは、石造りの螺旋階段を踏む彼の木靴の音を聞いた。

 上階の女市民シトワイエンヌシモンもまた、それを聞いていた。玩具おもちゃを運ぶラサールが三階に姿を見せた時、彼女は少年の部屋のドアを開け、その場に立っていた。それは騎士の模擬馬上試合に使われる類の揺り馬であり、ポニーくらいの大きさの頭と肩に、残りは木組みの上から軍馬用の馬衣うまぎぬをかけたものだった。このドレープのついた布は束にまとめられ、全体はかなりの重量があるようだった。

 モブキャップ【註5】の下にある大きな顔に厳粛な表情を浮かべた大柄で男性的な女は、彼の為に道を開けた。

 彼は部屋の中に荷物を降ろした。一息吐くと、彼は周囲をぐるりと見回した。緑のサテン製ベッドカバーをつけたマホガニーのベッドで、幼い王はすやすやと眠っていた。

 女市民シトワイエンヌが入口で見張りを務めている間に、ラサールは馬衣うまぎぬをくくっていた紐を無言のまま切り裂いた。彼が布を取り去り、馬の首と尾を掴んで持ち上げて脇に放ると、後にはカルマニョールと小さなパンタロンを着けた、黄色い髪の八、九歳の子供が残された。

 女は振り返ると、身を乗り出して子供の青白い顔を見つめた。それは蝋燭の明かりで濡れた象牙のようにきらきらと輝いていた。彼女は睡眠薬によって眠りに落ちている、ぐったりした少年を、もっと間近で見ようと歩み寄って来た。

「急げ!」ラサールはささやいた。顔に塗りつけた汚れを通して、強い光を放つ両目が命じていた。「俺たち全員の命が懸かってるんだ」二歩先にあるベッドには、同じく薬の作用で完全に眠り込んでいる幼い王がいた。ベッドカバーを剥ぐと、彼はシーツごと子供を抱き上げて肘掛け椅子に運んだ。それから入口での見張り役に戻っていた女に手振りで合図して、もう一人の子供から素早く衣服を剥いでベッドに運ぶと、何事もなく眠っているように身体の位置を整えてから、寝具でおおった。

 次に彼は、迅速な、事前に充分計画された人間の躊躇ちゅうちょない動作で再び王を抱き上げると、その身体をシーツで包み込み、単なる使用済みリネンの束にしか見えぬように形を整えた。

「今だ!下の奴らにも聞こえるように大声を出せ。口汚い魚売り女みたいに罵るんだ。あんたの荷物を幾つか運ぶのを手伝うように俺を脅してくれ」

 すぐに彼女は、命じられた通りに即興芝居を始めた。シモン夫人は用意ができている二つの荷物を掴むと、声を高めて騒々しく罵った。

「その包みを持ってって、アンタの手押し車に載せて運んどくれよ。わかった、わかった、心配しなくたって、その分はちゃんと払ってやるから。ああもう、役立たず。そいつを表に持ってくんだよ!」

 彼は荷物を運びながら階段を降り始め、その後に続く女が騒々しくわめき立てる声が塔中に響いた。「友愛フラテルニテの話だよ!最近は二言目には友愛友愛だけどねぇ。あたしなんて、まるっきり荷物運びの家畜扱いだよ。ウチの亭主ときたら、引越しの準備を全部女房に押し付けて、コミューンのご立派な紳士方と一緒に飲んだくれてる。仕方なしにアンタみたいな能無しのウスノロに手伝うように頼んだら、駄賃を払う約束をしなけりゃ、荷物に手もつけやしない。まったく!あたしが若くて器量良しだったら、アンタも荷物と一緒に大喜びであたしを運んでくだろうにねぇ。それに、もしあたしが他の男の女房だったら、けだもの野郎のシモンは、あたしに荷物運びを丸投げなんかしないだろうにねぇ。男なんて、そんなもんだよ。どうしようもない汚い連中さ!」

 がみがみと小言をまくしたてながら、シモン夫人は彼を急き立てて曲がりくねった階段を降り、それに答える彼の調子も益々乱暴になって、あんたの小汚い古着を扱うのは本当なら俺の仕事じゃねえし、俺があんたの亭主だったら口汚い女にはさっさとくつわめてやるぞ、と呪詛の言葉を吐き散らした。

 彼らの立てる騒音と互いに大声で怒鳴りあう声は、会議用ホールにいた当番委員たちの間に、最初は驚きを、次に浮かれ騒ぎを引き起こした。如何にも猛烈に追い立てられている様子で、ラサールは荷物と共に開け放されたドアをそそくさと通って行き、その後に続く女は、万一、誰かが外に出ようとした際の邪魔になるようにと、出入り口で足を止めた。

「このロクデナシども、何が可笑しいんだい?アンタはどうなんだい、シモン?アンタが、そのご立派な愛国者の皆さんと一緒に馬鹿みたいに飲んだくれてる間、あたしは荷物を全部運んで、手押し車付きのエテ公からコケにされてろって言うのかい? 役立たずサロー!何の為に給料もらってんだい?それがアンタの仕事かい?」

「馬鹿言え!俺っちの仕事は終わってらぁ、でなきゃ、あの餓鬼を引き渡した時に終わるかだ。オメェの仕事は、うるせぇ口を閉じて片付けを続けるこった。それとも俺様がその口を閉じてやろうか。わかったら、さっさと行け!」彼はそう怒鳴って片付けた。

 彼女は怯えたかのように、呪詛の言葉をつぶやきながら、よたよたと表に出て行った。

 ラサールは既に手押し車に荷物を積んでいた。彼はシモン夫人から、彼女が運んできた包みをひったくった。「そらそら!夜が明けちまわぁ」彼はシーツに包まれた小さな身体の上に、嵩張かさばってはいるが軽い包みを放り投げた。「まだあんのかよ?」

「まだまだあるよ。其処で待ってな」

 再び塔に入ると、彼女はまたもシモンに向かって罵り声を上げた。

「やれやれ」彼は仲間たちに告げた。「俺っちは、もうズラかった方が良いみたいだな、でなきゃ、あのババア、ずっとわめき続けるぞ。餓鬼の引渡しを済ませちまおうや。アンタらは書類に署名する前にアイツを見ときたいだろ。じゃあ、行こうか市民たち」

 酒宴の〆に全員でグラスを飲み干すと、彼らの一人が恐妻家の夫は如何にして出来上がるかという下品な冗談を披露して、一同はひとしきり笑った。彼らは会議用ホールを出ると、シモンの後に従い階段まで行った。

 階上に向かう中途で、彼らは両腕のそれぞれに椅子を引っ掛けて降りてくるマリー=ジャンヌと出くわした。すれ違う余地はほとんどなかったが、彼女は男たちの抗議にもかかわらず、無理に通ろうとした。

「この飲んだくれども!」彼女は怒りつつ告げた。「もう少し静かにできないのかい。子供が眠ってるんだよ。ドアの後ろに食器類の包みが一つあるからね。アンタが降りてくる時、ついでに下まで運んどくれ、アントワーヌ。それから灯りも消すんだよ」

 一同は彼女の警告に従って、無言で残りを行った。静かに進んだ彼らは、シモンの後について王の部屋に入った。シモンはテーブルから蝋燭を取り上げて掲げ持つと、手振りでベッドを示した。

 その薄暗い明かりの中、足を止めていた部屋の中央から、彼らは枕の上に黄色の髪、ベッドカバーの下に子供の身体らしき輪郭があるのを確認した。それだけで終わりだった。しかし彼らが見せろと頼めるのは、それで全てだったのである。各人はそれぞれ頷くと、引き下がった。

 シモンは食器類の包みと共に、彼らの後から降りてきた。既にドアには錠を下され、鍵は回収されていた。彼は階下へと降りながら、階段の壁に掛けられたランタンを一つひとつ消していった。

 階下で待機中の妻に包みを手渡すと、彼は最後の形式的手続きの為に、もう一度会議用ホールに向かった。其処で彼は、当番委員の一人であるコシュファに王の部屋の鍵を渡して、彼ら四人が証明書に承認の署名をするように要求した。そして、一にして不可分なるフランス共和国の革命暦第Ⅱ年雪月ニボーズ30日の夜9時、彼らはアントワーヌ・シモンから、ルイ=シャルル・ド・カペーの保護を引き継いだのである。

 それで終了だった。タンプル塔における、シモンの最後の義務は果たされた。彼はもう、いつでも出発できる状態だった。

 外では既に、ラサールがリネンに隠された子供を押し潰さないように配慮して、二つの椅子を手押し車に積み上げていた。二つの椅子でこしらえた木枠にまたがるように食器類の包みを配置して、厚地のコートを着込んだシモンがランタンを手にして姿を見せた時には、出発の準備が完了していた。

 彼らは溶けた雪でぬかるんだ道を通って、裸の樹々がしずくを滴らしている、霧に包まれた庭を渡り始めた。最初、彼らは黙り込んでいた。タンプル塔を出入りする人間や、物品の全てを厳しく確認するように命じられている衛兵をやり過ごすのに失敗すれば、自分たちの首で代償を支払わねばならぬのを意識して、シモン夫妻は怯えていた。肝が太くできているラサールさえもが、衛兵詰所に接近するにつれて脈が速まるのを自覚したと後に告白している。しかし彼は判断能力を失わず、一芝居打つ事を思い出して、一行が中庭に差し掛かる頃には、彼らが姿を見せるより先に耳障りな罵り合いの声が聞こえるような状態になっていた。

 ラサールは二人に向かって、このような夜に彼を引き留めて召使同然に顎で使った事を罵っていた。女市民シトワイエンヌは夫に対して、彼女をほったらかしにして飲んだくれていた怠け者が妻を荷引き馬のようにこき使う事について、呪詛の言葉を吐いていた。シモンは妻に、夫を一時も休ませない口やかましい女めと呪い返した。そして夫妻は、煩く非難して彼らを悩ませる手押し車の男を罵倒した。

 かようにして、三人全員が各々口汚く叫びながら、一行は中庭を通り抜け、衛兵詰所コール・ド・ガルド目指して進んでいった。

 前方には、この不作法な連中によって詰所から誘い出された衛兵隊長が、背後に三名の部下を従えて立っていた。

「いかした仲良しさんたちだな、おい?」彼はそう言って迎えた。

 三人はすぐさま、彼に向かって己の不満をまくし立て始めた。身振り手振りを交える事で余計に狂乱状態になった彼らを、衛兵隊長は懸命に静めようとし、その間、背後の部下達はにやにや笑いで待機していた。遂に我慢の限界に達した隊長も怒鳴り声で応じ始めた。

「ええい、畜生!貴様ら、俺をつんぼにする気か?」

 彼らは突然静かになった。

「そっちは確かに市民シモンか?退去する前に地下室を空にしてきたか?そら」と彼は部下の一人に命令した。「門を開けろ、ジャック」

 シモンは衛兵隊長に向かって、自分が如何に不当な扱いをされたかを哀れっぽく訴え始めた。其処にシモンの妻が猛然と割り込み、職を失うのも当然な、甲斐性なしの役立たずサローと結婚してしまった不幸を隊長に理解させようとした。彼らが言い争っている間に、鉄の門は蝶番をきしませ開かれていた。ラサールは極めて無愛想かつ無頓着に、前方へ手押し車を転がした。しかし隊長は、その上に手を置いた。

「そう急ぐな、アンちゃん。何を積んでるんだ?」

「汚ねぇボロとガラクタの包み以外、何を積んでると思ってんだ。あのロクデナシどもが引き留めてくれたお陰で、俺はみぞれの中で延々立ちん棒だ。もう脚が……」

「ああ、静かにしろ!悪魔の宴会かよ!自分の荷物以外を持ち出しちゃいないだろうな?」隊長は手を置く場所を、危なっかしく据えられている食器類の包みに移した。それは彼のてのひらの下でカタカタと音を立てた。強健なマリー=ジャンヌは叫び声を上げると彼の胸を押し、後ろに突き飛ばした。

「なんて事すんだい、この粗忽者の野蛮人!割れたらどうしてくれるんだい、それとも、もう割れちまった皿をまた粉々にしようってのかい?」

「静かに、女!静かにしろ!」衛兵隊長は抗った。

「そのぶきっちょな手を少しは優しく動かせないのかい?危ないとこだった。もうちょっとで皿が全部粉々になってたよ。熊みたいな大男が、一体全体、何をコセコセ探しまわるつもりだい?あたしらは出て行くとこだって知ってるだろ?それともアンタ、あたしらが、こんな椅子だの台所道具だのを盗んできたとでも思ってるのかい?どうなんだい?」威嚇するように、女傑は彼の前に立ちはだかった。「そんな風に思ってるのかい?」彼女の声は激しさを増した。「あたしらは正直者なんだよ、シモンとあたしはね。ずっとそうさ。正直者でなきゃ、タンプル塔の管理を任されたりするもんかね。それだってのに、アンタみたいな制服着込んだウスノロが、あたしらをコソ泥扱いして良いと思ってんのかい」

 シモン夫人の剣幕に圧倒された彼は、どうにか彼女を黙らせようと空しく試みた。

「義務が……私の義務が……規則でそうなって……」

「義務!」彼女は叫び、そして怒気を含んで辛辣に嘲笑した。「そういうのはね、おせっかいって言うんだよ!大きなお世話さ。アンタは死んだ専制君主の近衛兵みたく、もったいつけたいだけさ。フランスには忌々しい貴族どもが、まだまだ山ほど残ってるんだよ。ありゃみんな、国家の敵じゃないか。アンタみたいな図体のでかい男たちは、大人しい女を手荒く扱って泥棒扱いの難癖つけてる暇があったら、国境に行ってフランスの敵と戦っておいでな。いいかい、あたしが男だったらね……」

 衛兵隊長は忍耐の限度に達した。

「いいか市民シモン、そのガミガミ婆を即刻ここから連れ出さなければ、彼女に罰をくれてやるぞ。行きたまえ!」

「誰がガミガミ婆だい!」彼女は叫んだ。

「行け!」衛兵隊長は怒鳴った。「駆け足!進め!」

 彼は肩にシモン夫人をかついで連れて行くと、混乱し、わめき散らす彼女を門の外に押し出した。

 ラサールは彼女の後からのっそりと手押し車を転がして行き、その間、しんがりを務めるシモンがマリー=ジャンヌの振る舞いについて平謝りする事で、衛兵隊長の注意を引き付けた。しかし隊長は、それ以上何も欲しなかった。

「出て失せろと言ったはずだぞ。仲良く地獄にでも行きやがれ。お前らのつらを二度と見ないで済むのを神に感謝せにゃならん」

 門を越えてしまうと、ラサールは丸石を踏みしだいて手押し車を転がしながら、陽気に歌いだした。

『アー!サ・イラ、サ・イラ、サ・イラ
マルグレ・レ・ミュタン・トゥ・レウッシラ!
(ああ!うまくいくさ、うまくいくさ、うまくいくさ
暴徒がいようと、きっと事は成し遂げられるさ)』



訳註

【註1】:La Marseillaise 1791年にライン川防衛線の守備隊の為に作られた軍歌。共和制フランスに干渉しようとする諸外国に対する徹底抗戦を叫ぶ血生臭く排外的な歌詞であり、マルセイユ義勇兵が歌って広めた為に『マルセイユ人の歌』と呼ばれて流行、1795年7月14日には国民公会で国歌として採用された。現フランス国歌。

【註2】:La Carmagnole 元々はイタリアの俗謡と言われている。カルマニョールはイタリアの地名カルマニョーラに因んだ農民の服装を指す言葉のフランス語読み。貧しい庶民であるサン・キュロットを鼓舞する内容であり、当時は革命歌として流行した。

【註3】:Ah ! ça ira 原曲はルイ十六世の治世末期に流行したダンス曲『ル・カリヨン・ナショナル le Carillon national』。革命歌として流行するにつれ、次第に歌詞が過激で血生臭いものとなっていった。

【註4】:シャルル=フィリップ(1757年10月9日 - 1836年11月6日)
ルイ十六世の末弟。アルトワ伯爵。後のフランス王シャルルⅩ世(在位1825年5月29日 - 1830年8月2日)。青年時代はマリー=アントワネットの遊び仲間であったが、革命勃発後は早々にイングランドに亡命。

【註5】:頭部全体を覆う柔らかな布製の婦人帽。

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