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海賊ブラッド (6)脱走計画

 その後、アラベラ・ビショップは埠頭の小屋に毎日果物を届け、更に後日、スペインの虜囚達に金と衣類等も持ってきた。しかし彼女が慎重に訪問のタイミングを見計らっていた為に、ピーター・ブラッドがそこで彼女と顔を合わせる事は二度となかった。そしてまた、患者達が回復するにつれて、彼が診療する時間も以前より短くなっていた。ワッカーとブロンソン――他の二人の医師――の治療を受けていた負傷者のうち三分の一が、怪我がもとで死亡していった間に、ブラッドが治療にあたった患者は全員が着実に治癒して健康を取り戻していった事実は、この叛逆流刑囚のブリッジタウンにおける評判を高めるのに役立った。それは単に患者の武運の差に過ぎなかったのかもしれない。だが町の人々は、その点について然程の斟酌をしなかった。この件が自由市民である同業者達の仕事を減らし、ブラッドの仕事を増やし、ひいては彼の所有者に利益をもたらした。ワッカーとブロンソンは、この耐え難い状態を終わらせる名案を考え出す為に額を寄せ合い知恵を絞った。だがそれは予測された行動だったのである。

 ある日、偶然か意図的にか、いつもより三十分早く速足で埠頭へとやってきたピーター・ブラッドは、丁度小屋から出てきたビショップ嬢と鉢合わせした。彼は帽子を脱いで、彼女に道を譲る為に脇に寄った。きっと顔を上げ、彼の姿が視界に入るだけで不愉快と言わんばかりの目付きで、彼女はそのまま行こうとした。

「ミス・アラベラ」なだめるような、訴えるような調子で彼は声をかけた。

 彼女はたった今、ブラッドの存在に気づいた風を装い、小馬鹿にしたような険のある視線を向けた。

「あら!」彼女は言った。「これはこれは、繊細な心の持ち主の紳士さん!」

 ピーターはうめくように言った。「お尋ね申し上げます。私めに寛大なる御容赦をいただけないものでしょうか?」

「随分と殊勝な事ね!」

「私を苛めるとは、なんと残酷な」謙虚を装って彼は応じた。「所詮、私は奴隷に過ぎないのに。それに、貴女もそのうち病気になるかもしれないのだし」

「それが何なの?」

「貴女が私を目の敵にしていたら、私を頼るのは癪でしょうね」

「ブリッジタウンに医者は貴方だけじゃないのよ」

「しかし私は一番腕がいい」

 彼女は不意に、どうやら彼がまたもや自分をからかう気でいるらしく、自分も少々乗せられてしまったのに気づいた。アラベラ嬢は身を硬くして、再び彼をにらんだ。

「貴方、ちょっと遠慮がなさ過ぎるんじゃなくて?」彼女は非難した。

「医者の特権ですよ」

「私は貴方の患者ではありません。ちゃんと覚えておいてちょうだい」そして見るからに腹を立てながら彼女は立ち去った。

「はてさて、彼女が口やかましいヴィクセン(牝狐)なのでしょうか、私が愚か者なのでしょうか、それとも両方なのでしょうか?」天の蒼穹に向かって問いを投げると、彼は小屋に入った。

 それが騒がしい朝の皮切りとなった。一時間ほど後、仕事を切り上げて帰ろうとしていた際に、他の二人の医者のうち、年若い方のワッカーが彼と帰路を共にした――このように擦り寄ってくる態度は異例であり、今までは彼等のどちらも、時折ぞんざいに「良い日を!」と挨拶する以上の言葉を彼にかけた事はなかったのだ。

「ビショップ大佐の許に帰るのなら、少し御一緒しませんか、ブラッド先生」と彼は言った。ワッカー医師は背が低く恰幅の良い四十五歳の男性であり、弛んだ頬と鋭く青い目をしていた。

 ピーター・ブラッドは驚いた。しかし彼はそれを押し隠した。

「私は総督邸に行くのですが」と彼は答えた。

「ああ!なるほどね!総督夫人か」そして彼は笑った。あるいは多分、冷笑した。ピーター・ブラッドにはどちらとも判断がつかなかった。「彼女は君にべったりだそうじゃないか。若くてハンサムなブラッド先生!若さと見目の良さ!我々の職業にとっても、計り知れない利点ですな――特に御婦人方に関しては」

 ピーターは彼を見つめた。「貴方の勘繰りをほのめかしたいのなら、スティード総督に直接おっしゃった方がよろしい。きっと総督も愉快に思われるでしょう」

「誤解ですよ」

「そう願いたいものですね」

「そうかっかしないで!」医者はピーターと腕を組んだ。「私は君と友人になりたいんですよ――君の力になりたいんです。まぁ、お聞きなさい」本能的に彼の声はより低くなった。「君が今ある奴隷の境遇は、君のように有能な人にとっては、実にうんざりするもののはず」

「察しのいい事ですな!」皮肉っぽくブラッドは叫んだ。しかし医者は額面通りに受け取った。

「私は馬鹿ではありませんぞ、我が親愛なるドクター。人を見る目には自信がありましてね、それに私はしばしば他人の心のうちを言い当てる事もできるのです」

「私の心の内を言い当てて御覧になれば、説得力もありましょうが」ブラッドは応じた。

 彼等が埠頭に沿って歩き出すと、ワッカー医師は更に傍に寄ってきた。彼はより一層、秘密めかした調子で声を低めた。彼の鋭く青い目は、自分より高い位置にある同行者の浅黒く皮肉っぽい顔を見上げた。

「私は一体何度、君が海に面した窓から外を見つめる姿を目にした事か。君の心はその二つの目に表れていた!君が何を考えていたのか、私にわからないとでも?もしも君が奴隷身分の地獄から逃れられたなら、自らの喜びと利益を追い求める自由な人間として、己の専門とする職に力を発揮し、誉れを得る事ができるだろうに。世界は広い。君の同胞達を暖かく迎え入れてくれるような、イングランド以外の国は数多くある。英国領以外にも、植民地なぞいくらでもあるんだ」声は更に、ささやきと変わらぬほど低くなった。とはいえ、声の届く範囲には他に誰もいなかった。「キュラソー島のネーデルラント入植地ならば、今の処は何も問題はない。この季節なら難易度の低い安全な航海計画が組めるかもしれない。そしてキュラソー島は単なる足がかりに過ぎないんだ、君が奴隷の身分から解放された瞬間に目の前に開かれる、広い世界に出る為のね」

 ワッカー医師は話を終えた。彼は蒼ざめ、わずかに息を切らしていた。しかし彼の鋭い目は依然として無表情な同行者に定められていた。

「で?」彼は再び言った。「どうだね?」

 それでも尚、ブラッドはすぐには答えなかった。彼は激しく動揺し、己の心に投げ込まれた、恐るべき騒動を引き起こす事が必至の問題を正確に見定める為に、気を静めようと努力していた。彼は別の側面から攻める事にした。

「私には金がない。そういう事には相当な金がいるでしょう」

「私は君の友人になりたいと言っただろう?」

「何故?」至近距離からピーター・ブラッドは尋ねた。

 しかし彼はその返答を真剣に聞いてはいなかった。ワッカー医師は奴隷待遇によって衰弱した同僚医師に心を痛めているのだと力説したものの、彼の弁舌の才は発言に説得力を与える事に失敗し、ピーター・ブラッドは明白な真相に鷹のごとく飛びかかった。ワッカーと彼の同僚は、自分達を脅かす商売敵を追い払いたかった。ブラッドには優柔不断という短所はなかった。彼は他者が這う処で跳ぶ男である。そして今さっきワッカー医師に植え付けられるまでは抱いていなかった逃走という考えは、瞬く間に大きく成長するようになっていた。

「わかった、わかりました」彼は同行者が尚も説明を続けるのをさえぎって、ワッカー医師の面目を立てる為にお人よしを演じた。「実に気高い方だ――医師仲間に対してこれほど親身になってくださるとは。私も同じ立場に置かれた時には、かくありたいものです」

 熱心に尋ねるあまりにワッカーの鋭い目はぎらつき、かすれ声は震えた。

「で、どうなんです?応じますか?」

「応じる?」ブラッドは笑った。「もし私が捕えられて連れ戻されたら、彼等は二度と飛べないように私の翼を切って、生涯消えない烙印を押すでしょうね」

「まさか、少しばかりの危険を冒す価値もないと?」そそのかそうとする声は、前にも増して震えていた。

「まさか」ブラッドは同じ言葉で返した。「しかし、この計画には勇気だけでは足りない。金が要ります。スループ(小型帆船)は、恐らく20ポンドはするでしょう」

「それなら用立てよう。借りればいいんだよ、我々――私への返済は、君の都合の良い時でかまわない」

 うっかりと漏らされた「我々」という言葉から、ブラッドは即座に理解した。もう一人の医師も計画に加わっているのだと。

 彼等は波止場の居住区の近くまできていた。ブラッドは感謝する筋合いなどないのは百も承知の上で、手短かつ雄弁に感謝の意を表した。

「続きはまたにしましょう――明日にでも」彼はこう言って話を結んだ。「貴方は私の為に、希望の門を開けてくださいました」

 少なくともそれだけは掛け値なしの真実以外の何ものでもないのだという事を、彼は押し殺した笑いによって露骨に表した。それは実際、ここで一生を終えるのだと思い込んでいた暗い牢獄の扉が、突然、明るい外界に向かって開かれたようなものだった。

 彼は興奮を静め、何をするべきか筋道を立てて計画する為に、急いで一人になろうとした。誰かと相談する必要もある。その相手は既に思いついていた。航海にはナビゲーター(航海士)が必要だが、航海士ならば手の届く場所にいる。ジェレミー・ピットだ。まず初めに、この計画を実行に移す時には必ずや自分と行動を共にするであろう、あの若い航海士と相談する事だ。その日は終日、彼の心は新たな希望で混乱し、パートナーと定めた男とこの件を論じる為に、夜になるのを待ち焦がれて苛々と過ごした。最終的に、ブラッドはその夜、複数の奴隷小屋と監督の大きな白い屋敷をまとめて大きく柵で囲った地で、他の者には気づかれずにピットとわずかに言葉を交わす機会を見いだした。

「今晩、皆が眠った後で私の小屋に来てくれ。君に話したい事がある」

 ブラッドの含みのある口調によって、人間性を奪い尽くされる日々の末に陥っていた無気力から目覚めさせられた若者は、彼を凝視した。それから彼は頷いて理解と同意を示し、二人は離れた。

 バルバドスにおける六ヶ月のプランテーション生活は、若い船乗りに悲惨とも言うべき痕跡を刻みつけていた。かつての聡明な機敏さは、すっかり失われていた。顔には空虚が広がり、瞳はどんよりとして輝きに欠け、虐待された犬のように萎縮し、こそこそと行動した。栄養価の低い食事、照りつける太陽の下での過酷な砂糖きび農園の労働、手を休めた時に監督が振るう鞭、彼に運命づけられた死人のように単調な家畜生活の中で、ピットは命を保っていた。しかしそれでも未だ、更にどん底が控えていた。時折、彼の持ち場の近くで酷使されているのを見かける黒人奴隷達と同等の、家畜以下の待遇まで落とされる危険にさらされているのだ。しかしピットは未だ踏みとどまっており、完全に生気を失った訳ではなく、ただ深すぎる絶望によって活力を失っていたのである。ブラッドがその夜、彼に話した最初の単語によって、若者は即座にその無気力を振り払い、そして目覚めた――目覚めて、そして泣いた。

「逃亡?」彼はあえぎながら言った。「ああ、神よ!」彼は両手で顔を覆うと、子供のようにすすり泣いた。

「しっ! 落ち着け!落ち着くんだ!」泣きじゃくる若者を危惧してブラッドは小声で警告した。彼はピットの傍らに行き、なだめる為に若者の肩に片手を置いた。「後生だから、しゃんとするんだ。この話を聞きつけられたら二人とも鞭で打たれるぞ」

 ブラッドに許されている特別待遇には彼専用の小屋も含まれており、ここで彼等は二人きりだった。 とはいえ、その小屋は編み枝細工に薄く泥を塗った壁と竹製の扉で作られている為、物音は筒抜けだった。その晩、砦柵(さいさく)には錠が下ろされており、今は――真夜中過ぎの事である――皆が寝静まっていたが、それでも奴隷監督が表を歩いているかもしれず、声を聞きとがめられる可能性はあった。ピットはそれを悟り、感情の爆発をコントロールした。

 間近に座り、彼等はその後、小声で一時間かそこら話をしたが、その間に、なまくらにされていたピットの知性は希望という貴重な砥石によって鋭く研ぎ澄まされていった。この企てには仲間を募る必要がある。少なくとも半ダース、可能ならばそれ以上、しかし十人が上限。それには、ビショップ大佐が買い取ったモンマス軍の生存者二十名から選抜しなければならない。航海慣れした者が望ましかった。しかし、この条件に適う者は不運な囚人達の中には二人しかおらず、その上、彼等の知識は決して完全ではなかった。英国海軍に所属していたハグソープと、前国王の御世に下士官であったニコラス・ダイク、そしてもう一人、オーグルという名のガンナー(砲手)がいた。

 彼等は別れる前に、ピットがこの三人を手始めにして、次に六人から八人の者に誘いをかける事で意見が一致していた。彼は細心の注意を払って行動するつもりであり、事を打ち明ける前には極力慎重にその者に打診をし、いよいよ打ち明ける段になっても、具体的な行動に移す以前に裏切りによって失敗する事態を警戒して、計画の全てを話すのは避けねばならなかった。彼等とはプランテーションで共に作業している為に、ピットは同輩の奴隷に問題を切り出す機会には事欠かなかった。

「あらゆる事を警戒するんだ」それが別れ際にブラッドの与えた最後の忠告であった。「イタリアのことわざにもあるだろう、『ゆっくり行く者は安全に遠くまで行ける』だ。君が迂闊な事をすれば全てがお終いになる。航海士は君しかいない、君なしでは、我々の逃亡計画は成り立たないんだ」

 ピットは再び確約すると、自分の小屋と藁の寝床に戻る為に忍び足で立ち去った。

 翌朝、埠頭にやってきたブラッドは、気前の良い心持のワッカー医師に出くわした。一晩置いてみると、彼は30ポンドまでならば、この囚人に前払い金を提供してやる心構えになっていた。それだけあれば、この植民地から離れる事を可能にする船を入手できるだろう。ブラッドは愛想良く感謝を表し、ワッカーが何故こうも気前良くなったのか、本当の理由に気づいている事はおくびにも出さなかった。

「私が必要としているのは、金ではありません」と彼は言った。「船です。一体、誰が私に船を売って、スティード総督の布告通りの罰を受けたがるでしょう?貴方がたも、あの布告は読まれたでしょう?」

 ワッカー医師の太った顔が曇った。思案しつつ、彼は顎をさすった。「私もあれは読んだ――うん。私も君に船を用意してやる事はできない。露見してしまうだろうからね。確実に。罰則は、投獄に加えて200ポンドの罰金。身の破滅だ。わかってくれるね?」

 ブラッドの心中の大きな期待はしぼみ始めた。そして絶望の影が彼の顔を曇らせた。

「しかしそれでは……」と彼は口ごもりながら言った。「どうしようもない」

「いやいや。事はそれほど深刻でもない」ワッカー医師は、固く結んだ唇にわずかに微笑を浮かべた。「それについては考えてある。船を買う男は、君と行を共にする集団の一員になるはずだ――当人がここにいないので詳しい話は後日になるが」

「しかし私の仲間達以外に、誰が私と同行するというんです?私に無理なら、その人でも無理でしょう」

「奴隷以外にも、この島には拘留された者達がいる。借金が返せずに島流しにされた者達にとっても、ここからの逃亡は望む処だろう。ナトールという男がいるのだが、そいつは船大工でね、たまたま小耳に挟んだ話からすると、彼は君に雇われるチャンスに飛びつくはずなんだ」

「だが破産した人間が、どうやって船を買う金を手に入れられるんです?それは訊かれるはずですよ」

「確かに疑問に思われるだろうね。だが抜かりなくやりおおせれば、問題が起きるより前に君達は全員ここからいなくなっているはずなのだ」

 ブラッドが理解を示して頷くと、彼の袖にワッカーが自分の手を置いて腹案を明かした。

「君は私から金を受け取る。受け取ったら、それを提供したのが私だという事を忘れるんだ。君にはイングランドに友人――恐らくは親類――がいる。その人物は、ブリッジタウンに住む君の患者の一人を介してその金を送った。その気高い人物を厄介事に巻き込まないように、君は決してその名を明かさないだろう。何を尋ねられたとしても、それは君が説明すべき問題だ」

 彼はブラッドを真剣に見つめ、ひと呼吸おいた。ブラッドは理解と同意を示して頷いた。ほっとした様子で、医者は話を続けた。

「しかし君が慎重に事を進めるなら、余計な質問をされたりはしまい。君はナトールと協力して事にあたるのだ。君は彼を仲間に加える、船大工というのは乗組員としては非常に有用だろう。君は売りに出されているスループ船を見つける為に彼を引き込むんだ。君の方で必用な準備は、船を買う前に全て済ましておく。避けられぬ質問がされる前に、船を手に入れてすぐに脱出できるようにね。どうだ、この案に乗るかい?」

 その案を採用したブラッドは、一時間も経たぬうちに首尾よくナトールと顔を合わせ、ワッカー医師の予測した通りにこの男が計画に乗り気であるとわかった。彼がこの船大工の許を立ち去った時には、ナトールが必要とされる船を探し、ブラッドはすぐに購入資金を用意する事で両者は合意していた。

 早速、出処を隠したワッカー医師の金を受け取ったブラッドにとって、船の探求は予想より長くかかった。しかし三週間が経とうとする頃、ナトール――今や毎日会うようになっていた――が、うってつけのウェリー(平底船)を見つけ出し、その所有者には22ポンドで売る意思があると知らせてきた。その夜、人目につかない遠い浜で、ピーター・ブラッドは新たなパートナーにその金額を渡し、翌日の遅くに購入を完了するようにと指示されたナトールは帰って行った。彼が埠頭に船を運び、ブラッドと仲間の囚人達が夜闇にまぎれて合流し、そして逃亡する手はずであった。

 全ての準備が完了していた。負傷者達が全員移動させられてからは無人になっていた例の小屋に、ナトールは既に必要な備品を隠していた。ハンドレッド・ウェイト(50㎏)のパン、大量のチーズ、水樽と、かなりの本数のカナリー(カナリア諸島産のサック酒)、羅針盤、四分儀、海図、砂時計、ログライン(測程索)、防水布、様々な大工道具、ランタンと蝋燭。そして砦柵内でも同様に準備が整えられていた。既にハグソープ、ダイク、オーグルは、この危険を伴う冒険への参加に同意しており、そして他にも八名の者が慎重に誘いを受けていた。ピットの小屋は他の叛逆流刑囚五名と共有されていたが、その全員が自由を得る為の計画に参加しており、準備を重ねる夜の間にはひそかに梯子が設置されていた。彼等はこれを使って砦柵を越えて出入りしていたのである。彼等は物音を立てぬようにしていた為に、発見される危険を案じる必要はなかった。夜間には、全ての囚人を柵の内側に閉じ込めておく以上の予防措置はなかった。結局の処、逃亡を試みるほど愚かな者がいたとして、一体、この島のどこに身を隠せるというのだ?主たる危険は後に残される囚人達に気づかれる事の方にあった。彼等が用心深く静かに行動しなければならないのはその為であった。

 その日、バルバドスで彼等が過ごす最後となるはずの日は、逃亡計画に加わった十二名の仲間達にとっては希望と不安の一日であり、下の町にいるナトールにとっても、その点に変わりはなかった。

 日没に向かう頃、取引を済ませ次第その足で小型船を所定の停泊地に運ぶという役目の為に出発するナトールを見送ってから、ピーター・ブラッドが砦柵に向かってゆったりと歩いてゆくと、丁度畑から駆り立てられてきた奴隷達と行き会った。ブラッドは彼等に道を開けてやる為に入口で脇に寄ったが、その瞳に希望の輝きを込めてメッセージを送る以外には奴隷達と意思の伝達を図ろうとはしなかった。

 ブラッドが彼等の後から柵いの中に入り、各々の小屋に入る為に奴隷達が列を崩した時、彼はビショップ大佐と言葉を交わしている奴隷監督のケントの姿を見た。反抗的な奴隷に罰を加えるという目的で緑地の真ん中に据えられている晒し台の近くに、二人はいた。

 ブラッドが歩を進めると、ビショップは彼を見る為に振り返り、顔をしかめた。「今までどこにいた?」彼はそう怒鳴り、そして大佐の声が脅すような調子なのはいつもの事であるにもかかわらず、ブラッドは心臓が不安に締まるのを感じた。

「町で診察をしていました」彼は答えた。「パッチ夫人が熱を出し、デッカー氏が足首を捻挫しました」

「私はデッカーの許にお前を呼びに行かせたが、お前はあそこにはいなかったぞ。怠け癖が過ぎるな、貴様。無駄な時間潰しをやめんようなら、近いうちに自由時間を減らさにゃならん。自分が叛逆罪で刑に服している事を忘れたか?」

「それを忘れられるような機会など、私には一時たりとも与えられていない」言い返さずにはいられない性分のブラッドはそう言った。

「くそっ!反抗する気か?」
 
 大事なものを危険にさらしている事を思い出し、構内を取り巻いている小屋で皆が不安に耳をそばだてているのを突然に強く意識して、彼は直ちに常にない服従を示した。

「反抗ではありません。私……私を探す為に、お手間をとらせて申し訳ありませんでした……」

「まったくだ、だが貴様はもっと申し訳なく思うだろうよ。総督閣下が痛風のせいで負傷した馬のように悲鳴を上げているというのに、貴様はどこを探してもいないんだからな。とっとと行け、こいつめが――さっさと総督邸に行くんだ!言っただろう、総督がお待ちだ。一番早い馬をこいつに貸してやれ、ケント。さもないと、この田吾作は一晩かかってもたどり着けんぞ」

 彼等はブラッドを急き立て、彼は心理的抵抗を押し殺して振舞った為に息が詰まりそうになっていた。不本意とはいえ、結局の処は治療を済ませる以外になかった。逃亡は真夜中に予定されており、その時までには容易に戻れるはずだ。彼はケントが極力早く目的地に着けるようにと用意した馬に乗った。

「柵の中に戻る際には、どのようにして入ればよいのでしょうか?」彼は別れ際に尋ねた。

「入る必要はなかろう」ビショップが言った。「総督邸での役目が済んだら、閣下が朝までの間、犬小屋でもあてがってくださるだろうよ」

 ピーター・ブラッドの心は、水に投げ入れられた小石のように沈んだ。

「しかし…」と、彼は言いかけた。

「行けと言ったろう。日が暮れるまでそこに突っ立って、無駄話を続ける気か?閣下がお待ちだ」そしてビショップ大佐が容赦なく蹄側を杖で打った為に、牝馬は乗り手を振り落とさんばかりに前脚を跳ね上げた。

 ピーター・ブラッドは、絶望に近い心理状態で総督邸に向かった。絶望するに足る理由はあった。逃亡は少なくとも明晩まで延期しなければならず、そして延期はナトールの取引の露見と、糊塗するに困難な問題の発生を意味する。

 彼の頭にあったのは、総督邸での仕事を終えてすぐに夜道を歩いてこっそりと戻り、柵の外から合図してピットや仲間達に合流すれば、脱走計画はまだ実現可能だろうという考えだった。しかし彼は総督の事を計算に入れていなかった。スティード総督は痛風の重い症状に苛まれており、ブラッドの到着の遅れによる苛立ちが、そのまま彼に対する怒りに転じていたのである。

 ブラッドは真夜中過ぎのかなり遅い時刻まで引き止められ、ようやく瀉血によって患者を少し落ち着かせる事ができた。そこで彼は退出しようとした。しかしスティードは耳を貸さなかった。急にブラッドが必要になった場合に備えて、総督邸内に泊まるように求めたのである。さながら運命が彼をもてあそんでいるかのようであった。少なくとも、今夜は逃亡を断念せざるを得ないのは確実だった。

 特定の薬が必要であり、自ら薬局まで取りに行かねばならないという理由で一時的に外出するまでは、ピーター・ブラッドは早朝まで総督邸から抜け出せなかった。

 その口実を用いて目を覚ましつつある町を訪れると、彼は狼狽で怒り狂っているナトールの許へと直行した。ナトールは全てが露見し、自分も事件に関係したせいで破滅すると考えていた。ピーター・ブラッドは彼の不安を鎮めた。

「計画は、今晩に延期だ」彼は内心よりも自信に満ちた調子で告げた。「総督から死ぬまで血を抜き取ってやらねばならん。君は昨夜と同じ準備をしておいてくれ」

「けど、それまでに怪しまれたらどうするんだ?」ナトールが愚痴っぽく言った。彼は針金のように痩せた青白い小柄な男であり、今は不安げな目をしきりとしばたたかせていた。

「可能な限り誤魔化せばいい。機転をきかせるんだよ。私もそうそう長居はしていられない」そしてピーターは、前もって書付を送っておいた薬を受け取りに薬局へ向かった。

 彼が去ってから一時間も経たぬうちに、ナトールの惨めなあばら家に総督府の役人がやってきた。船の売り手は正規の手続き――流刑囚がやってきた事によって制定された法――に従って役所に売上を報告し、小型船の保有者全てに義務付けられている10ポンドの保証金の償還を受け取ろうとしていた。取引の確認が完了しないうちは、償還の支払いは先延ばしにされるのである。

「我々は、君がロバート・ファレル氏からウェリーを購入したという報告を受けている」担当者が言った。

「その通りです」これで一巻の終わりと思い、ナトールは答えた。

「総督府に報告にくるのに、随分と手間取っているようだな」役人は如何にも官僚らしい傲慢な態度だった。

 ナトールの気弱そうな目は一層せわしなく瞬きした。

「ほ……報告を?」

「それが法令だと知っているだろう」

「わ……私は、存じませんで。申し訳ありません」

「しかし、一月に公示された布告で施行されているぞ」

「わた、私は、字が読めないんです。私は、ぞ……存じませんで」

「ふん!」役人は侮蔑によって彼を萎縮させた。

「ともかく、今、お前は知らされた訳だ。正午になる前に、義務付けられている10ポンドの保証金と一緒に必ず役所にくるんだぞ」

 尊大な役人は去って行き、この朝の暑さにもかかわらず、ナトールは冷や汗をかいていた。彼は最も恐れていた質問、つまり多額の借金を抱えた彼のような者がどうやってウェリーを買う金を手に入れたのか、という質問を、あの役人がしなかった事でほっとしていた。だが、これが一時の猶予に過ぎないのはわかっていた。遠からず、この質問は確実にされ、目の前で地獄への扉が開くだろう。ピーター・ブラッドの脱出計画などに耳を貸してしまった自分の馬鹿さ加減を、彼は罵った。きっと全ての計画が発覚するだろう。恐らく自分も首を吊られるか、少なくとも焼印を押されて、愚かな気の迷いで結託してしまった忌まわしい謀反人達と同じように奴隷として売り飛ばされてしまうのだ。この忌々しい保証の為に10ポンドを用意できさえすれば、役人から不審に思われるきっかけを与えずに事務手続きが速やかに完了して、質問はずっと先になるかもしれない。あの役人の使いが、ナトールが債務者であるという事実を見落としたように、総督府の役人達も、少なくとも一日か二日は気づかずにいてくれるかもしれない。そして彼等がそれに気づいた時には、上手くいけば、自分は連中の質問の届かぬ場所にいるだろう。しかし、それまでの間に、この金をどう工面すればいい?しかも正午になる前にだ!

 ナトールは帽子をひったくると、ピーター・ブラッドを探しに表へ出た。だが、どこを探せば見つけられるだろう?凸凹とした舗装されていない道を無計画にうろつき回り、彼は思い切って一人、二人をつかまえて、今日の朝、ブラッド医師を見かけなかったかと尋ねてみた。ナトールは体調の悪いふりをしたのだが、実際、彼の様子は偽装に説得力を与えるようなものであった。しかしながら誰からも情報は得られなかった。この計画で果たすワッカー医師の役割をブラッドが一切話していなかった為に、不幸な無知のままに歩き回るナトールは、このバルバドスにおいて彼を窮地から救い得る唯一の人物が住む家の前を素通りしてしまった。

 最終的に、ナトールはビショップ大佐の農園に向かう事にした。恐らくブラッドの行先はそこだろう。彼が不在だったとしても、ピットを見つけて伝言を残せばいい。彼はピットと、この計画にピットが果たす役割を承知していた。ブラッドを探すに際しての口実は、自分が体調不良で医者の助けを必要としているという事でいいだろう。

 そしてナトールが心配のあまり焼けつくような暑さにも無感覚になりながら、町の北にある丘へと登ろうとしていたのと同じ頃、これまでの処は総督の痛みが和らいでいる為に退出を許されたブラッドは、ようやく総督邸を出たのであった。騎馬している彼は、予期せぬ遅れさえなければナトールよりも先に砦柵に着いていたはずであり、その場合には、いくつかの不幸な出来事は回避されていたかもしれない。その予期せぬ遅れとは、アラベラ・ビショップ嬢によって引き起こされたものであった。

 二人は総督邸の華麗な庭園の門で鉢合わせし、自身も騎馬していたビショップ嬢は、馬上のピーター・ブラッドをまじまじと見つめた。図らずも、彼はこの時、気勢の上がった状態であった。総督の病状が今の処は好転しているという事実、それはすなわち、ブラッドが行動の自由を取り戻したという事であり、これまでの十二時間以上を働きづめに過ごした鬱屈を払うに充分だった。鬱屈の反動で高揚した気分は、現在の状況に必要とされる程度を超えて高まっていた。彼は楽天的になっていた。昨夜失敗した事が、今晩また失敗したりはしないだろう。結局の処、一日くらい何だというのだ?役人は厄介かもしれないが、しかし少なくとも、この二十四時間に限ればそう深刻な厄介ではない。そしてその時までには、自分達ははるか彼方に去っているはずなのだ。

 この楽天的な思い込みが彼の最初の不運だった。次の不運はビショップ嬢もまた同様に機嫌が良く、そして彼女は根に持つ性分とは程遠いという点にあった。この二つの組み合わせは、結果的に恐ろしい遅延を招く結果となった。

「おはよう、素敵な朝ね」彼女は機嫌良く彼を歓迎した。「最後にお会いしてから、一ヶ月近いんじゃないかしら?」

「二十一日」彼は言った。「指折り数えていましたのでね」

「私、貴方が死んでしまったんじゃないかと思い始めていたところよ」

「花輪のお礼を言わねばならぬようですね」

「花輪?」

「私の墓を飾る為の」彼が説明した。

「貴方って、人をからかわずにいられないの?」最後に会った時、自分が彼のからかいに腹を立てて立ち去った事を思い出し、彼女は不思議そうに、そして生真面目に彼を見た。

「人間というものは、時々自分を笑いものにするか、それとも発狂するかしなけれ、やっていけないものなんですよ」彼は言った。「大抵の人間はそれがわからない。だから世の中には掃いて捨てるほど狂人がいるんだ」

「貴方が自分自身を笑いものにするのは、ご自由に。でも貴方、時々、私の事も笑いものにするじゃないの。それって随分失礼じゃなくって」

「信じてください、誤解ですよ。私が笑うのは滑稽な人間だけ、貴女には滑稽な処などどこにもない」

「じゃあ、私は何なの?」彼女は笑いながら尋ねた。

 一瞬、彼は彼女について思いめぐらせた。明るく溌剌とした美しさがあり、完全に乙女らしく、そして尚かつ、完全に率直で臆する事がない。

「貴女は」彼は言った。「私を奴隷として所有している男の姪御さんですよ」しかし彼の物言いは気楽なものだった。彼女が思わずむきになったほど、あまりにも軽い調子だった。

「駄目よ、誤魔化さないで。今朝は正直に答えてもらうわよ」

「正直に?まったく、貴女の質問に答えるのは大仕事だ。だが正直に答えましょう!あー、そうだな、貴女を友人に加えられる男は、幸せ者だとは言えるかも知れませんね」彼の心の内には言うべき事は多々あった。しかし彼はそこで言葉を切った。

「それは御丁寧に」彼女は言った。「社交辞令がお上手でいらっしゃること、ミスター・ブラッド。貴方のような立場の人なら…」

「やれやれ、他の連中がどんな事を言うのか見当がつかないとでも?我が同胞の男どもの事をまるでわかっていないとでも?」

「時々、貴方は本当にわかっていないんじゃないかって思うわ。それとも承知の上で、わざとやっているのかしら。どちらにせよ、貴方が自分の同胞の女の事をわかっていないのは確かね。あのスペインの人達の一件を思えば」

「その事は忘れてくれませんか?」

「絶対、いや」

「バッドセス(間の悪さ)のせいで、すっかり悪い印象を持たれてしまった。あれの埋め合わせになるような美点は、私には一つもないんですか?」

「そうね、いくつかあるかも」

「たとえば?」彼の態度は熱望に近いものだった。

「貴方はスペイン語がお上手よね」

「それだけ?」彼は呆然とした。

「どこで覚えたの?スペインで過ごした経験がおありなの?」

「確かに。スペインの刑務所で二年過ごしましたよ」

「刑務所にいたの?」彼女の声は不安げで、彼はそのままにはおけないと思った。

「戦争で捕虜にされてね」彼は説明した。「私はフランス側で戦ったんだ――フランスに仕官して」

「でも、貴方は医者でしょう!」彼女は叫んだ。

「あれは、ただの回り道だったような気がする。私の天職は軍人だった――少なくとも、私は十年間を軍人として務めた。万事順調だった訳ではないが、だがそれは、ご覧の通り、奴隷に落とされる原因になった医師稼業よりは、はるかに性に合っていた。人を殺す事の方が、人の命を救う事よりも主の御心にかなっていたらしい。どうやら、ね」

「でも、どうして軍人になって、フランスに仕官する事になったの?」

「私はアイルランド人ですよ、よろしいか?そして医学を学んだ。それ故に――我等は頑固な民であるが故に、……だが、長い話になってしまうな、大佐は私の帰りを待っているだろうし」彼女は好奇心を満たすのを先延ばしにする事を許さなかった。彼がほんの少しの間待っていれば、二人で一緒に帰宅できるはずだった。彼女は叔父の頼みで総督の見舞いをする予定になっていた。

 彼は待つ事にし、そして彼等はビショップ大佐の家まで馬を並べて共に帰った。二人は並足でゆっくりと馬を歩かせ、彼等が追い越した何人かの者達は、奴隷医師が自分の所有者の姪と如何にも親密そうな様子でいるのを見て驚愕した。その中には、大佐に告げ口をしようと考える者も何人かいたかもしれない。しかし馬上の二人は、この朝、お互い以外の存在を完全に忘れ去っていた。彼は自分の若く無鉄砲な日々を彼女に語り、その最後に自分の逮捕と裁判の顛末を細部まで話した。

 彼等が大佐の館の入口で止まった時に話は辛うじて終わり、鞍から降りたピーター・ブラッドは、大佐が在宅であるのを知らせた黒人従者の一人に馬を引き渡した。

 それでも尚、彼女が彼を引きとめた為に、しばし二人はその場に残った。

「残念だわ、ミスター・ブラッド。もっと前に知る事ができなくて」そう口にした彼女のハシバミ色の澄んだ瞳には、涙がにじんでいた。やむにやまれぬ思いを込めて、アラベラ嬢は彼に向かって手を伸ばした。

「何故です、それで何かが変えられる訳でもないでしょう?」彼は尋ねた。

「少しは違っていたかもって、思うの。貴方はずっと、運命から顧みられずにきたのね」

「ええ、今は……」ブラッドはひと呼吸おいた。彼の鋭いサファイアの瞳は、黒い眉の下からしばしの間、揺るぎなく彼女を見つめた。「せめてもの救いがある」意味ありげな様子で彼は言い、それが彼女の頬を染め、瞬きを激しくさせた。

 別れる前に、彼はアラベラ嬢の手に接吻する為に身を屈め、彼女もそれを拒まなかった。それからブラッドは身をひるがえして半マイル先にある砦柵に向かって大股で歩み去ったが、しかし頬を染め、突然ひどくはにかんだ彼女の面影は彼につきまとった。そのほんの一時の間、彼は自分が十年の刑期を課せられた囚人である事を忘れた。彼は自分が脱走を計画し、それが今夜実行されるはずだという事を忘れた。総督の痛風の結果として現在の彼が瀕している、計画が露見する危険さえも忘れた。

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Captain Blood本編の全訳に加え、時代背景の解説、ラファエル・サバチニ原作映画の紹介、短編集The Chronicles of Captain Blood より番外編「The lovestory of Jeremy Pitt ジェレミー・ピットの恋」を収録

1685年イングランド。アイルランド人医師ピーター・ブラッドは、叛乱に参加し負傷した患者を治療した責めを負い、自らも謀反の罪でバルバドス島…

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