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The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第一部(10)レマン湖

Ⅹ. レマン湖

 黄色の大型四輪馬車ベルリーヌは大過なくヴォランに到着し、其処で馬を交換した上で、また旅を続けた。更に5マイルを行った処で、ラサールが行動を起こすに至った推論を充分以上に裏付けるかのように、竜騎兵隊と三名の文民がやって来た。彼らの姿を目にしたラサールは、騎乗御者に指示を与える為に窓から身を乗り出した。

「不審尋問された時にはだ、いいかい、君が知っているのは、これだけだ。君はディジョンから来た。これは事実。そして出発からここまで、客は俺しか乗せていない。君が金を手に入れて、しかも連中に拘引されずに済ませたいなら、これが事実なんだと心から信じる方がいいね。以上だ。後は君の機転に任せるよ、君の優秀さに期待する」

 その竜騎兵隊は接近し、間もなく馬車は蹄の音、金属がぶつかり合う音、兵士の声と馬の嘶きに包まれた。

 呼び止められた騎乗御者が手綱を引いて馬車を停めると、間髪を容れず、この部隊を指揮する文民である、小柄だが筋肉質で身ごなしの精悍な厳つい顔をした男が、自分の馬から降りて大型四輪馬車ベルリーヌのドアに飛びついた。彼の声は、厳しくも勝ち誇ったようなものだった。

「この鬼ごっこでは、随分こっちを振り回してくれたじゃないか、市民シトワイヤン。だが、これでやっと……」そう言いながらドアを開き、車内にただ一人の乗客を目にした彼は、一瞬、硬直した。その乗客である妙に気だるげな態度の若者は、まるで感情のこもらぬ調子で、この狼藉は一体どういう事なんだいと尋ねた。

「その兵士たちがいなけりゃ」そう続けて彼は「君はここで死んでいたよ。物盗りと間違えて、視界に入った瞬間に撃ち殺していたはずさ。何しろ君は、辻強盗にしか見えないからね」と言葉を重ねた。

「貴様の仲間は何処にいる?」他の二名の文民と、兵士たちを統率している隊長とが背後で見守る中で、そのがっしりとした男は彼に食ってかかった。

「仲間?」ラサールは鸚鵡おうむ返しに言った。「俺には連れがいて当然だとでも?何だってそんな事を?さっぱりわからないな。生憎あいにく、一人旅が好きな性分なんでね。用事がそれだけなら、もう行ってもいいよね」

 デマレの困惑と怒りはラサールの冷静を装った態度によって煽られた。

「書類を確認する」

「はん!今度は俺に証明しろってか。あんたの目当ての誰かさんじゃないのかどうか、無防備で哀れな旅行者をしつこく問い詰めて悩ませると。生憎あいにくだが、こっちは無防備でも哀れでもないし、ならず者風情ふぜいの要求に応じて、ほいほい証明書を差し出したりはしないよ。まずは君の権限を明かしたまえよ、善良なる市民くん」

 公安のエージェントであるのを証明する赤白青のカードが目の前に突き出された。「俺はデマレ。司法省。これでいいか?」

「充分過ぎるくらいですよ、市民岡っ引き」ラサールの口ぶりは、彼が目前の男の身分を知った事により、嫌悪の対象と定めたのを示唆していた。彼はポケットの中を探りながら、うんざりしたように溜息を吐いた。「まったく、君みたいな勿体ぶった小役人は、君主制時代の専制政治の日々に逆戻りしたような気分にさせてくれるよ。ともかく、そらどうぞ」

 エージェントは、市民ガブリエル・ウッソンのパスポートを手に取ると、それを精査した。その非の打ち所のなさに当惑を深めたものの、しかし彼はまだ諦めなかった。「君はここに記載されている当人か?」

「そんなの当たり前じゃないか」

「これには『所用の為スイスまで旅行』とあるが」

「その点は、間違いなく本当」

「だったら何故、国境に向かわんのだ?国境に背を向けているじゃないか」

「俺のパスポートは、そいつを禁じてますかね?シャロンにいる旧友を訪ねる為にちょっと引き返すのも駄目だなんて、何処にそんな事が書いてあるんです?」彼の快活さは影を潜め、厳しい調子になった。「もういいでしょう、市民デマレ。流石に越権行為なんじゃないですか。もう、俺の書類を返して解放する潮時ですよ」

 デマレは結論を下しかねて息を荒げた。仲間の一人が彼の袖を引いた。「時間の無駄ではありませんか、今は一分一秒が貴重な状況ですよ?」

「時間の無駄!」デマレは癇癪を起こした。「今更、時間を節約して何になる?クソッ、我々がこの二日間、間違った手がかりを追いかけていたとすれば、今からどうやって標的を発見できるっていうんだ?」

「推測ですが」同輩が意見した。「あのモンバールの与太者が、実際は敵の一味で、故意に違う大型四輪馬車ベルリーヌの特徴を証言した可能性があるのでは。それで我々は連中を見失ったのでは」

「何とも愉快な推測だな?」彼は投げつけるようにしてパスポートをラサールに返した。「そら。大事な書類を取りな。ボン・ヴォヤージュ!(良い旅を!)」それは災いあれと祈るかのような口調だった。彼はドアをバタンと閉めて後ろに下がると、地獄に送り出すかのような態度で騎乗御者に合図して馬車を進ませた。

 鞭が鳴り、大型四輪馬車ベルリーヌは動き始め、そしてラサールは車中に落着いた。微笑が彼の唇を変形させていた。勤勉なる市民デマレは、上司の許に戻った時にどうなる事やら。

 だからといって、この芝居が無事終わったからシャロンへの旅は切り上げようなどとは考えなかった。パリから追ってきた紳士たちの念頭には未だ疑いが留まっている可能性が高く、他に有力な手がかりがない以上は、僅かな可能性にすがって、尚も黄色い大型四輪馬車ベルリーヌと一人旅の男を監視下に置き続けるかも知れない。直ちに国境を目指してジェクスに馬を飛ばすなど問題外だ。よって、ラサールはシャロンへと向かい、定められた本来の道を外れて彼を運んでくれた代金に加えて、約束通りの報酬を騎乗御者に与えてから、その町で宿をとる事となった。

 翌日、新しい馬と新しい騎乗御者を揃えた彼は旅行を再開し、ブールを経由する道を走った。其処からシャレーに逆戻りし、更にフォシル峠コル・ド・ラ・フォシルを越えて、遂にジェクスに到着した彼が最初に目にしたのは、そびえ立つジュラ山と巨大なモンブラン山脈の狭間にあるレマン湖の壮観だった。

 長い旅だった。計算外の時間を失ったせいで、ほぼ一週間をかける結果となってしまった。これは迂回をした事だけが原因ではなく、激しい雷雨に伴う大洪水によって、馬車による通行がほとんど不可能になった為であった。騎馬で行けば、彼も深刻な足止めはされなかったはずだ。けれども、この大型四輪馬車ベルリーヌはフォン・エンセの私財であり、男爵の許に運ぶ必要もあった為、捨てて行く訳にもいかなかった。彼がフランスで過ごす最後の夜となる、六月最後の木曜日の夜、もう一つの嵐が突然、かの地に吹き荒れたのだが、その嵐はジェクスでぬくぬくとベッドに横たわっていたラサールが想像し得る範囲を超えて、彼の運命と密接に関係していたのであった。

 その翌日、前方にそびえるアルプスの頂上を真っ白に輝かせる太陽によって、静かに、そして晴れやかに夜が明けると、黄色い大型四輪馬車ベルリーヌは危険な旅の最終段階に向けて出発し、午後遅くに、ジュネーブの突出つきだ狭間はざまがある赤い壁が見える位置まで到達した。日没に向かう頃、馬車はローヌの橋を渡り、湖畔の『黒鷲亭』の中庭に停車するべく乗り入れた。

 粗末な身なりの男が一人、屋根付きの車寄せポルトコシェールのすぐ外にもたれて無為に煙草をふかしていたが、その男は馬車の後を追って庭に出ると、念入りに検分してから旅籠に入った。

 大型四輪馬車ベルリーヌから降りながら、ラサールは、すぐにサン=ピエール通りのマルタン・ルバの家、つまりはフォン・エンセと王が待っているはずの場所まで案内を頼んだ。

 このマルタン・ルバというフランスの時計職人は、何年も前からスイス人女性と所帯を持ち、この時計職人の都【註1】に永住しているのだが、彼は革命時代を通じて、ジュネーブにおける王党派エージェントとして並外れた献身振りで活動し、秘かに国境を越えようと試みる多くの亡命貴族エミグレに対して計り知れぬ貢献をしてきたのであった。ルバはド・バッツとの間で、ほぼ途切れる事なく連絡を保ち続けており、一行がフランスから脱出する直前に、しばし休憩し、其処から先の安全な逃亡ルートについて話し合う為に彼の家を集合場所とするのは、フォン・エンセとの間で事前に合意済みだった。

 険しい坂を登った先にある、丘の頂上に建つ大聖堂の足元に広がる古い市街で、ラサールはサン=ピエール通りを発見した。その狭い道路は、張り出しの深いひさしと鋭い切妻屋根のある木骨造りの家々が立ち並んでおり、幾つかの家屋前面には、信仰信条の言葉と図像を彫り込んだ素朴な装飾がほどこされていた。

 目的の場所は労せずして見つかった。ルバの名前は広い店頭に堂々と表示されており、弱まりつつある光の中でもくっきりと見えた。それから程なくして夕闇が訪れ、家は闇に包まれた。彼は扉を叩き、そして待った。

 待つ間、戸口の上り段で振り返った彼は、その路のずっと先で、ふいに戸口の影に滑り込んだ二つの人影に気づいた。

 そして扉の向こうから重たい足音が聞こえた。掛け金が外され、ドアは内側へ開き、そして背の高い中年男が掲げるランタンの灯りがラサールの顔に浴びせられた。

「ムッシュー・ルバは御在宅ですか?」ラサールは尋ねた。

「出かけてる」男はそっけなかった。

「私の名前はウッソンです。お訪ねするという連絡がいっているはずですが。旅を共にして…」

 彼の言葉は遮られた。「ムッシュー・ルバは、ここにはいない。今朝ジュネーブを立った。日曜の夜か、月曜の朝には戻るだろう。彼に用があるなら出直してくれ」そして男が付け加えた言葉は、ラサールには意味有りげに聞こえた。「必ず。出直してくれ」

「ああ、ちょっと待って。ムッシュー・ルバが不在としても、フォン・エンセ男爵はここにいるはずだ。だから――」

 再び男は割り込んだ。「ムッシュー男爵ル・バロンは、ここにいらっしゃった。だが彼も出立された」

「出立?有り得ない!何処に行ったんです?」

「彼はもう行ってしまった。俺に話せるのはそれだけだ、ムッシュー。後はムッシュー・ルバから直接聞いてくれ。おやすみ!」

 ドアはラサールの鼻先でバタンと閉められ、夜のとばりが降りつつある静かな急勾配の路上で、彼は狼狽と憤慨の狭間に取り残された。前方に目を凝らせば、モンブランの山々はほとんどが谷の深まる影に飲み込まれ、雪に覆われた山肩は、山頂に隠れた太陽の残光で尚も赤らんでいた。

 彼はためらい、腹を立てつつ、しばしの間、その場に立っていた。再びドアを打ち鳴らし、少なすぎる言葉で示唆された謎の回答を要求する衝動をどうにか押さえつけると、彼は踵を返し、のろのろと道に降りた。

 どうやら、宿をとる必要がありそうだ。ルバの帰宅によって、フォン・エンセの後を追うにはどのルートを行くべきかが判明するまでは、二、三日の間は其処に泊まらなければなるまい。如何なる事情によって、男爵が彼を待たずにジュネーブを去らざるを得なくなったのか、ラサールには見当がつかなかった。だが、逃亡中の彼を恐れさせるような事態が起こったのは間違いあるまい。

 コートのポケットに手を突っ込んで、首を縮め、視線を落として大股で歩く彼は、曲がり角で逆方向から来た男とぶつかった。衝突により両者は立ち止まったが、この時、ラサールは自分の目前にあるのが、つい最近馴染みになった男、デマレの顔であるのに気づいた。

 ショーウインドウからの明かりによって、彼らは一瞬、互いの顔をまともに見た。それから小声で詫びの言葉を告げ、やはり相手がデマレであると確信したラサールは、横に避けて、彼に道を譲った。疑われもせず、そのまま行くのを許された事により、彼の不信は深まった。ラサールは自分が彼に気づいたと気取られぬように心がけ、デマレの方も、あえて相手の姿を確認しようとはしなかった。だが、あのしつこいブラッドハウンドがジュネーブに姿を現したという事実は、ラサールが丁度この時に自問していた謎の回答を与えてくれた。あの男は、どのようにしてか、再び獲物の足跡を発見し、国境を越えてまで追ってきたのだ。

 フランスの密偵たちの大胆不敵振りについて、ラサールは知り過ぎるほど知っているし、それはルバも同じだろう。ジュネーブは国境に近接しており、この三年間、スイスに辿り着いた途端に自分の身は安全と気の緩んだフランスからの逃亡者が何人も連れ去られている実情を、あの時計職人は充分に意識しているはずだ。従って、ルバは慎重かつ油断のない行動をするであろうし、自分の家に国王を保護していたこの数日間は、尚の事、用心に用心を重ねていたはずだ。ルバの方にも、デマレと手下どもの出現を報告して来るような密偵がいるだろう。革命政府の密偵たちのジュネーブへの到着、これは勇敢なる王党派の時計職人が、高貴なる逃亡者の安全に不安を覚えるには充分だろう。

 つまりは、これがフォン・エンセが高貴なる被保護者と共に慌てて出発した理由、そしてルバその人が不在である理由という訳だ。恐らくルバは、彼らの安全を図りつつ、先導し警護する為にエンセたちに同行しているのだろう。

 備えあれば憂いなし。ラサールの対応は、己の同国人による卑劣な行動に備えて用心を怠らぬというものだった。夜にはドアにバリケードを築き、手の届く場所に装弾済のピストルを置いて眠り、そして日中は、害意ある連中が暴力沙汰に及ぶ可能性を考慮して、何処であろうと独りにならぬように留意した。

 危険な事態に備えて対処をしている事により、それ以外の時にはくつろいでいた。彼はレマン湖のマス料理とヌーシャテル産の白ワインを大いに楽しみ、旺盛な食欲で夕食をとり、そしてぐっすりと眠った。

 朝、彼は明るい日差しに誘われて外に出ると、散歩道をそぞろ歩き、美しい風景に心を奪われた。巨大な青い湖に反射する周囲の景観の壮大なる事。低い斜面にある果樹園と葡萄園から始まり、上方アルプスにあるエメラルド色の牧草地まで隆起している山麓地帯、更に上には再び巨大な岩々がそびえ、輝く氷雪で頂きが被われていた。彼は湖の水源であるローヌ川にかかった橋に足を向けた。焦茶色の梁に無骨な屋根が乗った赤色砂岩の建造物からは燃えるように赤い小塔が張り出しており、フランス人の目から見れば中世的で古めかしい趣があった。

 その近くで、群衆が防波堤につながれたボートに群がっていた。安全の為には人の多い場所にいた方が良いという判断か、ちょっとした好奇心かによって、彼はそちらに向かった。群衆の端にいた彼は、足早だが不規則で、よろめきつつも慌てて駆けつけたというような足音を背後に聞いた。振り返ると、息を弾ませつつ駆け寄った男が若い女を傍らで支え、その後を数人の子供たちが遅れてついて行くのが見えた。その男女は共に悲しげで、蒼白な顔をしており、女の方はすすり泣いていた。群集の際に立つラサールの脇を通り過ぎ、その男は乱暴に肘で人々を押しのけて道を作り、今や悲痛に泣き叫んでいる女性を通してやろうとした。「うちの人の処に行かせてちょうだい。ああ、ここを通して!お願いよ、通してちょうだい」

 小さな人垣を無理やり押し分け、彼らが前進して行くと、再び通り道は閉じた。

 チョッキと半ズボンを身に着けて、膝から下は素足という姿の若い船頭が、ラサールのすぐ脇に立っていた。ラサールは彼の方を向いた。

「何があったんだ?」

「土左衛門だよ」陰気な調子でそう答えてから、男は言い添えた。「気の毒な後家さんが泣いてんのさ。丁度、オカに死体が一つ上がったところだ」

「二つだよ」もう一人の男が訂正し、更に続けた。「ああ、デュウ・ド・デュウ!(神様神様!)無茶だったんだよ。嵐が来てるのはわかってたのに。だけど、あの紳士はローザンヌに急いで渡らなきゃいけない用事があったらしくてな、代金を余計に払うからって言ったんだ。だからってなぁ?」

「その金のお陰で、どうなったよ」最初の男が不機嫌な調子で言った。「岸から止める声が聞こえるのを無視して船を出した挙句、四人が溺れ死んで、若い後家さんが二人、路頭に迷うハメになったんだぜ」

 群衆は突然ざわめいた。野次馬の集団の中に一筋の小道が開き、其処には時折漏れる同情のつぶやきと、心痛で泣き叫ぶ女性の声だけしか乱すもののない静寂が生まれた。この土地の男が二人、担架で遺体を運びながら、堅実かつ重たい足どりで人込みの中を押し進み、その横では取り乱した様子でふらつく女性が、先程、道を開いた男によって支えられていた。

 彼らはラサールの近くを通過し、仰向けになって穏やかに微笑んでいる若くたくましい死者が見えた。二番目の担架が続いた。こちらの男は、より屈強な体格で、もつれた髪は色あせたブロンドだった。前方へ進み出たラサールの目は戦慄で大きく見開かれ、頬からは徐々に血の気が引いていった。彼が見下ろした先にある鉛色の顔、それはウルリッヒ・フォン・エンセの顔であった。

 ラサールは前に出ようとしたが、誰かが背後から乱暴に彼を押した。明らかになった事実に衝撃を受け、彼はしばし自失して、遺体の傍に立つ権利を主張する言葉が見つからなかった。彼が理性を取り戻した頃には、群衆の一部がその陰鬱な行進をとりまき、残りは四散していた。

 先程、彼が言葉を交わした若い船頭は、まだ横にいた。

「君、溺れたのは四人って言ったよね」そう話しかけた彼は、自分の声が平静を保っている事に我ながら驚いていた。

「四人だよ」男は同意した。「二人は船頭だった。兄弟のな。最初に運んでこられたのが、その片割れだ。次がその二人を雇った紳士。二番目の土左衛門よ。それから男の子。多分、あの紳士の息子だろうな。その四人全員が、二日前の晩に無茶やって溺れちまったって訳よ。他の死体はまだ上がってないが」

 ラサールは彼を見つめる視線に気づいた。見上げた先にはデマレの厳つく角ばった顔があった。彼にはかまわず、ラサールは無表情に群衆の後に従い、その場を立ち去った。

 明るい日差しが降り注ぐジュネーブの山々に囲まれた晴れやかな湖のほとりで、彼が全ての希望をかけていた冒険は、突然、そして残酷にも、悲劇的な結末を迎えた。

 運命の女神は、さながら性悪なあばずれ女の如くに、ほんの少し余所見をしている間に彼を裏切ったのであった。

第一部 終



訳註

【註1】:ジュネーブは16世紀に宗教的迫害から逃れた各地のカルバン派プロテスタントの亡命先となり、結果として多くの手工業者が集まる地となった。元々当地で栄えていた金細工職人が贅沢禁止令により転業を余儀なくされ、亡命機械職人の技術を取り入れて時計製造が発達、18世紀には大産業化している。

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