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Ⅳ ジスモンディの報酬


 盗人ぬすっとにしてならず者のベンベヌート・ジスモンディは、盗んだ馬にまたがりエミーリア古街道に沿ってゆっくりと北上していた。周囲の地面は降り注ぐ陽光を照り返す雪で白く輝いている。目の前に長く一直線に伸びた道は未踏の白雪がこれまでより少なく、遠く――四里ほど先――にフォルリンポーポリの尖塔がかすんで見えていた。

 寒さと空っぽの胃袋を呪いながらベンベヌートはゆっくりと馬を歩かせ、かじかんだ両手の指を代わるがわる大きな口にくわえて温めた。かつては立派なものだった衣服は着古してつぎが当てられており、長靴はぼろぼろ、すり切れた天鵞絨ビロードの鞘からは処々に刀身の青白い輝きがのぞいている。兵士らしく見せようとしてかぶった古い軍用兜モリオンには幾つもの凹みがあり、錆びが目立っていた。その下からは、だらしなく乱れた黒髪の長い房がはみ出し、日焼けした首の周りでぼろ布のようにはためいている。黒い顎鬚あごひげで半分隠れた血色の悪いあばた面は、イタリア全土でも群を抜くような悪相であった。

 彼は惨めな状況にあった。公爵チェーザレ・ボルジアが統治するようになったせいで、最近のロマーニャでは他者の財産に対する尊重が過ぎるようになり、ベンベヌート・ジスモンディのような輩は生計を立てるのに苦慮していた。なにせ、ベンベヌートの悪行には英雄的な要素は一切ないのだ。野外で剣先を突きつけて、たっぷり中身のつまった財布を寄越せと脅すような、命知らずのマスナディエーロ(強盗)ではない。そのような稼業には、彼としては避けて通りたい危険が伴っている。本来の彼は町の盗っ人――暗い夜に戸口に潜み、機会をうかがって適当な通行人の背中に短剣を突き刺し、それから好き放題に死者の金品を奪うような泥棒なのである。そして、そのような稼業の者は、チェーザレ・ボルジアが支配する都市においては、ほぼ根絶やしにされてしまったのだ。

 かような事情により、ベンベヌートは旅路にあった。とりあえず向かったのは北方――ボローニャ、あるいはミラノでもいい――だが、実直かつ敬虔な盗っ人が、お節介な行政長官ポデスタの度を越した熱意に邪魔されずに稼げる土地ならば何処であろうとかまわなかった。とはいえ、さっぱりとした気持ちで旅をしている訳ではなく、詮方無しにロマーニャを離れたことに不満を抱いていた。根っからのロマニョーロ(ロマーニャっ子)である彼は故郷を愛しており、他国は全て未開の蛮地とみなしていたのだ。その上、チェゼーナには黒い瞳のジャンノッツァがいる。この豊かな胸とアンフォラ(古代ギリシアの壺)のような尻をした女――「半月」亭の酌婦へーべー【註1】――は我らが主人公の心を猛烈にかき立て、恋という情動に目覚めさせていた。彼女を、そして豊満で温かな彼女の魅力を思い起こすのは、身を切るような北風にさらされながら雪に覆われたエミーリア街道を旅してきた彼にとっては拷問に等しかった。それゆえに、彼は己が不幸の元凶として呪ってきた教皇の私生児を一層激しく罵ったのであった。

 はるか彼方、今はまだ何処までも続く街道上の小さな点に過ぎないが、こちらに向かって馬で疾駆する者がいた。だがベンベヌートはその騎手に注意を払わなかった。彼の関心はもっぱら自分の苦痛、わけても飢えの苦しみにあった。フォルリンポーポリから先も飲まず食わずで行くのは不可能だ。我慢にも限界がある。だからといって、どうやって食事にありつけるというのだ?馬なら売れるかもしれない。しかし馬を失えば、どうやってボローニャに、あるいは更に遠いミラノまで行けばいい?その上、こんな馬を売りに出したらどうなる?あれこれと問いただされるだろう、間違いなくそうなる――この混乱状態の国では何かというと質問責めだ――そして質問者が納得するような返答ができないというのは、彼の首が吊られるのを止めるすべがないというに等しい。当節は、おそろしく簡単に絞首刑が決定されてしまうのだ。

 彼は鬱々とした心持ちで馬を歩かせ、自暴自棄が蛮勇に転ずる寸前にまでなっていた。件の騎手が近づいてくると、興味はそちらに向かい始めた。ふてぶてしく威圧的な態度や凄みのある声音で財布をせしめられるのではないか、腹をくくれば態度も声も保てるのではないかと考えるようになったのである。彼は震え、黄ばんだ歯がガタガタと鳴った。結論を急がずに、かなりの速度を出しながら単騎で疾走してくる乗り手の様子を観察してみよう。その間に重たい剣を鞘から抜いて、そのまま左手に持ち、ぼろぼろの外套の陰で仕事に備えた。かようにして、彼はその旅人と遭遇するべく馬を進めたのであった。

 人馬が近づくにつれてベンベヌートに見えてきたのは、その男が良馬に乗り、非常に豪華な装いで、刺し子の鎧下――防刃服――を着込んだ上に、葡萄酒色の天鵞絨ビロード地に山猫の毛皮をたっぷりと縁飾りに使った外套を羽織っているということだった。更に近くで観察すると、その男が若く、身分の高そうな雰囲気があるのがわかり、男の胸にかかっている重たげな金鎖や、天鵞絨ビロードの帽子に黒い羽根飾りを留めている宝石のブローチも目についた。彼はこれが危ない橋を渡るだけの価値がある好機と結論した。

 両者が接近しつつある間も相手を慎重に観察していたベンベヌートは、馬首を道の中央に向けて彼らが至近距離ですれ違うように仕向けた。若い男はちらりと彼に視線を向けただけで、自分の考えに没頭しながら馬を走らせ続けた。ベンベヌートは猛烈に震えだし、気力が失せる寸前になった。だが最後の瞬間に覚悟を決めると、見知らぬ旅人が側を通り過ぎようとした時、彼は突然、あぶみに立って、剣を振り上げ若者の頭に渾身の一撃を叩き込んだ。

 名も知らぬ若者がその動作と凶器に気付いた時には手遅れだった。必殺の一撃に見舞われた時も、若者の両手は手綱を握りしめていた。強打された時、彼は馬上で一瞬ぐらりと揺れ、次に鞍から転がり落ちた。怯えた馬は全速力で逃げだした。あぶみに引っかかった拍車は若者の身体が雪上を十数歩尺フィートほど引きずられた処でようやく外れた。彼は其処に横たわり、今や妨げるものも止めるものもなくなった馬は狂ったように駆け去ってしまった。

 ベンベヌートは馬首を返して倒れた男の処まで移動した。数分の間、彼は息を弾ませ、にやにや笑いを浮かべて鞍にまたがったまま、雪上で仰向けに横たわる男を見つめていた。眼下の男も彼と同じく、にやにやと笑っているように見えたが、こちらの方は全く息をしていなかった。頭からぬげ落ちた帽子はやや後方に転がり、若者の明るい色の髪は乱れて広がっているが、それは頭部に受けた傷からの出血で染まっていた。血痕は連なり落ちた小さな斑点となり、死体が引きずられた跡にも残されている。

 ベンベヌートはフォルリンポーポリに続く道を振り返り、次にチェゼーナへと向かう前方の道に目を凝らした。動くものの影は見えなかった。それに満足した彼は、血なまぐさい仕事の収穫を刈り取るために馬から降りた。だが、大それた行動に出るように彼を誘惑した華やかな服装は、今やあざ笑っているように見えた。彼は死者のポケットの貧しさを呪いつつ、ほとんど実りのない捜索を終えて立ち上がった。犠牲者の首から奪った金鎖と、金貨が三枚入った絹財布をてのひらに載せ目方を量ってみた。どうやら戦利品は黄金ではなく鍍金めっきのようであった。

 これっぽっちの獲物のために大層な危険を冒したという事実に、彼は怒りを覚えた。三枚の金貨と安ぴかものの鎖を手に入れるために人殺しをするはめになったとは、薄情な運命によってもたらされた皮肉であった。彼は殺人を犯すというのは重大な問題だと思い返した。それは不滅の魂の救済を危うくすることだ――そしてベンベヌートは、自分自身を真に敬虔で信心深い人間であり、母教会の忠実な息子であると認識していたのである。彼はロレートの黒いマドンナ【註2】に特別な献身をしており、聖アンナ信心会【註3】の会員で、その汚れた肌に昼夜を問わずスカプラリオ【註4】を着けていた。

 人を殺したのは初めてではないが、その所業に付いてくる大罪と地獄落ちの恐れに対する補償が、これほどお粗末なものだったことは未だかつてなかった。

 犠牲者の青白い顔を見下ろすと、その生命なき両目が邪悪なあざけりを込めて睨んでいるように見えた。恐慌が彼をとらえた。ベンベヌートは振り返ると手綱をひったくり、震えながら鞍に飛び乗って馬を走らせた。二〇歩尺フィートほど離れた処で、彼は再び手綱を引いて速度を落とした。馬鹿みたいじゃないか。ヤマネコの毛皮がふんだんにあしらわれた外套には、少なくとも5ドゥカートの価値がある。それに、あの帽子には宝石がついていた。

 引き返す途中で彼はじっくりと考えた。あの豪華な外套をどう利用すべきだろう?あれを売り払うのは自分の馬を売るよりも難しいはずだ。その一連の思考から天啓がひらめいた。あの死んだ男は彼に足りないものを全て与えてくれるし、自分が失ったものを気にするはずもない、あの世の住人なのだ。

 再び鞍から降りると、彼は道端に馬をつないで忌まわしい作業に取りかかった。だが、初めに手を付けたのは、怖気おぞけをふるうような嘲笑を浮かべた若者の目を閉じさせることだった。死者の霊を鎮めるために、彼は泥濘ぬかるみと雪の上で跪いて魂の安息を祈ることまでした。それから仕事に取りかかった。死体の脇の下に手を入れて街道から引きずり出す。広い溝に降りて進み、その先にある草原へと引きずっていく。その場所で、動揺で歯と指が震え、半狂乱で急いだにもかかわらず手間取りながらも、彼は死んだ若者から身ぐるみ剥いでいった。刺し子をほどこした天鵞絨ビロードの鎧下、絹の肌着、灰色をした革製の上質な長靴、腿丈のズボン。次に彼は自分の脂染みたぼろ衣を剥ぎ取ったが、その間ずっと身震いし、奇妙な弱々しい泣き声のようなものを発していた――理由の一部は厳しい寒さに苛まれたせいだが、それが理由の全てではなかった。

 一月の明るい日差しの中、彼はむしり取った華やかな尾羽を一枚、一枚、自分の羽に貼りつけるカラスのように、身なりを整えていった。これでミラノまで悠々と威厳を保ちながら旅をし、敬意と礼儀正しい扱いを要求できる――これまで知り合った連中からは卑賎な者としてあしらわれていたのだ。これで彼の前には幾つもの扉が開かれ、幾つもの好機に出会えるはずだ。

 死人はベンベヌートの体格とほぼ同じであり、既に彼が片方の足を突っ込んでいるこの長靴も、両足を快適に包んでくれるだろう。と、もう片方の長靴を手にした時、脚部の内側に硬い部分があるのに気が付いた。其処を指で触り、革を曲げてみる。この謎は興味をそそった。先にはいた長靴の表面にざっと指を走らせてみたが、同じような硬い部分はない。再び足を通していない方の長靴に視線を戻した彼は、寄り目を狡猾に輝かせながら、思案するように長細い鼻をこすった。この長靴に何かが隠されているのは明らかであるし、これはよくある隠し場所だ。さて、誰かにとって隠すだけの価値があるものは、別の誰かにとって探すだけの価値があるもののはずだ、ベンベヌートはそう考えた。この仕事は最初に思ったほど無益なものではないような気がしてきた。

 裏地から表皮をはがす作業は瞬く間に終わった。その隙間から取り出した紙包みは更に数枚の白紙でくるまれており、端には破られた緑の封蝋が半分貼りついている。その紙包みは数本の絹糸でまとめられていた。糸を切って包み紙をはがすには瞬く間すら要しなかった。彼は三枚の紙のうちの一枚を広げ、其処に広がっている大きな角ばった筆跡にざっと目を通した。

 それはラテン語で書かれた手紙であった。我らが悪党はその文章から、まずは彼の犠牲者の名前がクレスピであり、ファエンツァが出身地であることを確認した。彼は其処から更に重要な情報を読み取っていった。ベンベヌートは文盲ではなかった。愛情深い母親が我が子を教会にゆだねたお陰で、彼は否応なく一般教養を学ばされ、それから長い月日が過ぎ去った現在も、おそろしく苦労して覚えたラテン語をまだ忘れていなかったのだ。長い文字列を追いかけ、読み解く彼の目は輝いていた。ここに書かれている事柄は千金にあたいするかもしれない。だが、このような野外は戦利品の価値を吟味する場所としてはふさわしくない。通りがかりの誰かが死体の側にいる彼を目撃せぬとも限らないのだ。ベンベヌートは周囲を見まわした。

 遠く、フォルリンポーポリの方向で、複数の斑点が街道に沿って移動していた。迫りつつある騎馬集団。だが、まだ蹄の音までは聞こえてこない。慌てて書類を懐中にしまい、足を長靴に押し込む――雪の中に立っていたせいでタイツがぐっしょり濡れているのにもかまわなかった。それから彼はクレスピ青年の剣を取って自分の腰に吊る下げた。最後に外套をひったくると、雪を払い落として颯爽と己の肩に投げかけた。彼はぬぎ捨てた自分のぼろ着をまとめ、それを抱えて街道に戻った。其処にはまだクレスピの帽子が、落とした場所にそのままあった。彼はそれを拾い上げた。帽子は山の部分を横断するように斬られていたが、折り返し部分に充分な余裕があるので誤魔化すのは容易だった。外側に血痕はなく、内側もほとんど血に汚れてはいない。だが、その中には何か異物が存在した――黒い仮面、時として紳士があちこちと出歩く際に着けるような、完全に顔を覆い隠す型のものだった。

 ベンベヌートはそれを山の部分に移してから、手入れの悪い黒髪の上に帽子をかぶった。華やかな衣装を着けた彼の表情――狼と狐の中間のような――は、これまで以上の悪相に見えた。

 肩越しにちらりと確認した騎馬集団は、依然としてはるか遠くにいる。それから彼は馬にまたがり出発した。だが、もはや北には向かわず、来た道を引き返してチェゼーナに戻ろうとしていた。それは彼が発見した書類に示唆された進路であった。チェゼーナには冬の間、チェーザレ・ボルジアその人が滞在しており、現状におけるベンベヌートの取引相手は、あの手紙と密接な関わりのあるチェーザレ・ボルジアなのだ。公爵の気前のよさは有名だった。ベンベヌートは公爵の雅量についてじっくりと考え、自分が届けるものはヴァレンティーノ公爵閣下の気前を大いによくするであろうと考えて内心で喜々とした。

 一里ほど馬を走らせてから、ベンベヌートはぼろ服の束を溝に投げ捨てた。それが半ば凍った雪面の下に沈んだのを確認すると、重荷から解放された気分で先を急いだ。

 それから例の書類を再び取り出して、最後までつぶさに読み終えた。その内容はまさに、体の芯から暖めてくれるものだった。どうやら例のクレスピとやらいう男を始末したことにより、彼は栄誉ある愛国的な働きをしたらしいのだ。そして彼の犯した罪が罪にならないのも明らかになった。何故ならば、殺人者を殺すのは盗っ人から盗むのと同じようなものと考えられるからだ。クレスピが殺人者――それも凶悪な殺人者――であるのは、この手紙によって疑問の余地なく証明されていた。それというのも、これはヴァレンティーノ及びロマーニャ公爵チェーザレ・ボルジアその人の命を狙った残忍なる陰謀を明らかにしていたからである。これはクレスピが、ロマーニャ地方の様々な国から集った者たち――その人数までは記されていないが――から成る愛国結社の一員であり、この計画のために彼らが結託していることを示していた。この連中は秘密裏に行動し、裏切りの危険を減ずるために互いの素性は知らされていないのであろう。クレスピへの指示として、問題の夜にチェゼーナのマグリ邸パラッツォ・マグリで開かれる予定の集会には仮面を着けて来るようにとあることからも、これは確かであった。だが陰謀の首魁、指導者、魂と脳たる人物は、明らかに全ての参加者に知られていた。手紙には署名がされており、其処に記された名はエルメス・ベンティヴォーリオ――名門マルヴェッツィ一族を虐殺した人物【註5】であり、イタリアにおいては残忍で信用ならぬ暴君として有名なボローニャ僭主ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオの息子の名前なのであった。

 ベンベヌート自身は――読者諸賢もお察しのように――チェーザレ・ボルジアの信奉者ではなく、公爵が暗殺されたとしても嘆くどころか暗殺者をまことの英雄として賛えただろう。しかしながら、彼のような気質の男に対して、政治的な動機を私的な利益に優先してチェーザレ・ボルジアに奉仕する機会を棄て、そのチェーザレ・ボルジアから報酬として支払われるであろう黄金の小山をあきらめる選択を期待するのはお門違いというものだ。

 ベンベヌートの想像力は、その金貨の小山をおそろしく鮮やかに描きだした。それが「半月」亭の汚い食卓の上に積まれているのが見える。黄金にさざめくその輝きが見える。それをかき混ぜれば、小山が金属音を立てるのが聞こえる。彼の想像の中で、甘美なジャンノッツァの黒い目は山と積まれた金貨を前にして大きく見開かれていた。彼女の柔らかく暖かい肉体が、ついに惜しみなく彼の抱擁にゆだねられるのを感じた。

 嗚呼、盗っ人にして悪党なるベンベヌート・ジスモンディ、その運命を司る星は今、最もまばゆく輝けり。彼の運気は上昇していた。そして、この心強い事実に浮き立つ思いで、彼はサビオ川に架かる橋を渡り有力都市チェゼーナに足を踏み入れたのであった。

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26,330字

英国の作家ラファエル・サバチニによるチェーザレ・ボルジアを狂言回しにした短篇集"The Justice of the Duke"(1912…

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