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海賊ブラッド (5)アラベラ・ビショップ

vic isono

 ジャマイカ商人達がブリッジタウンにやってきた日から一ヶ月ほど後、よく晴れた一月のある朝、アラベラ・ビショップ嬢は市の北西にある丘に建つ叔父の屋敷から馬に乗って走り出た。彼女は礼儀に則った距離をおいて後から速足で従う二人の黒人奴隷に付き添われ、最近まで病床にあった総督夫人を見舞う為に総督邸を目指していた。頂上近くのなだらかな草深い斜面で、彼女は反対方向に歩いて行く、背が高く痩身の、地味だが紳士らしい服装をした男に出会った。それは彼女が初めて見る人物であり、この島では新参者は非常に珍しかった。にもかかわらず、何故ともわからぬ理由によって、その男は見知らぬ者のようには思えなかった。

 アラベラ嬢は手綱を引き、景色を眺める風を装って小休止した。それは実際、足を止めるだけの価値がある眺めであった。しかしながらハシバミ色の目の隅で、彼女は次第に近づいてくる男を入念に見定めた。彼女は男の衣服に対する第一印象を改めた。それが地味なのは間違いないが、しかし紳士らしさとは程遠かった。コートとブリーチズ(膝下丈ズボン)は簡素な粗い織物製であった。そして前者がこれほど彼の身に馴染んでいるのは、仕立ての為というよりも、彼の身についた優雅さに拠る処の方が大きいようだ。ストッキングは簡素な木綿製で、彼女に気づいた男が礼儀に則って脱いだつば広のカスター帽は、古びてベルトも羽飾りも付いていなかった。鬘(かつら)と思っていたのは、近くから見れば、その男自身の光沢のある黒い巻き毛であるのがわかった。

 日に焼けた髭のない陰気な顔から、驚くほど青い二つの目が謹厳に彼女を見つめていた。男はそのまま通り過ぎようとしたが、しかし彼女は呼び止めた。

「貴方とは、お会いした事があるような気がするのですけど」彼女は言った。

 彼女の声はきびきびとして少年のようであり、その仕種にも幾分か少年めいた処があった――これほど可憐なレディにそのような形容を当てはめるのが可能ならば、の話ではあるが。これは恐らく、女の手管とは無縁の心安さや率直さからくるものであり、それが彼女に誰とでも分け隔てない親しい付き合いを可能にさせていた。これこそが、アラベラ嬢が二十五歳になっても未婚であるというだけでなく、求婚された事自体がない理由かもしれない。彼女は全ての男性に姉か妹のように率直で媚のない態度で接していたが、それが男達が彼女に言い寄る事を難しくしていた。

 黒人奴隷達は後方で若干の距離を置いて止まり、彼女が先へ進む意向を示すまで、短い芝の上にしゃがんで待機していた。

 その見知らぬ男は、声をかけられるとすぐに立ち止まった。

「レディたるもの、御自分の所有する財産を把握しておくべきですね」彼は言った。

「私の財産?」

「少なくとも、貴女の叔父上の財物であるのは確かだ。自己紹介させていただきましょう。私の名はピーター・ブラッド、そして私の値段はきっかり10ポンド。それが貴女の叔父上が私に対して支払った金額だ。そのお陰で私は知る事ができたのですよ。全ての人間に、自分の値段を確かめる機会がある訳ではありませんからね」

 それで彼女は男が何者かを悟った。あの日、一か月前の突堤上で目にして以来、彼に会うのはこれが初めてであり、今の彼が奴隷とは程遠い外見に変貌していた点を考慮すれば、彼女がブラッドに対する興味をかき立てられていたにもかかわらず、再び彼を見た際にそれと気づけなかったのも驚くにはあたるまい。

「驚いた!」彼女は言った。「それに貴方、笑えたのね!」

「努力の末にね」と彼は認めた。「それに、最悪の不運手前でやっていけていますので」

「その事は聞いているわ」彼女は言った。

 彼女が聞かされたのは、この謀反人が医者であると判明した件であった。それが痛風に苦しむスティード総督の耳に入り、総督は買い手であるビショップ大佐から、彼を借り受けていた。技能によるものか幸運によるものかはともかく、ピーター・ブラッドは、ブリッジタウンで開業している二人の医者が両方とも匙を投げていた総督の苦痛を軽減した。そして総督夫人は、彼女の気鬱を治療する為に彼の付き添いを望んだ。ブラッドは既に、彼女の苦しみが癇癪――バルバドスにおける日々の倦怠が、社交生活を求める貴婦人に自然と引き起こした不機嫌の結果――に過ぎないと判断していた。しかし彼は夫人の為に処方を指示し、そして彼女はブラッドの処方のお陰で快方に向かっていると思い込んでいた。彼の名声がブリッジタウンに広まる頃には、ビショップ大佐は元々の購入目的であるプランテーションでの労働よりも、本職である医術を続けさせる方がこの新しい奴隷から得られる利益が大きい事に気づいていた。

「私の比較的安楽で清潔な状態は、貴女のお陰ですよ、マダム」ブラッドは告げた。「貴女に御礼を述べる機会を得られて光栄の極み」

 それは上辺だけの礼に過ぎず、彼の声音には感謝の色はなかった。この人は嘲っているんだわ。彼女は不思議に思い、そして余人ならば当惑するかもしれぬような、率直で探るような目を彼に向けた。彼はその視線に込められた問いを読み取り、それに答えた。

「仮に誰か他のプランテーション主が私を買っていたなら」と彼は説明した。「私の輝ける能力に光が当たる機会はなかったでしょうし、今この瞬間も、共に上陸した哀れな連中と同じく斧か鍬を振るっていたはずですから」

「それで、貴方は何故、その事で私に感謝するの?貴方を買ったのは私の叔父よ」

「しかし貴女が彼をせっついていなければ、買ってはいなかったはずですよ。私は貴女の関心に気づいていた。その時、私はそれに憤慨したのですよ」

「憤慨?」彼女の少年のような声には、挑むような調子があった。

「私は死と背中合わせの境遇を、これまで何度も経験してきた。しかし、売り飛ばされて買われるというのは初めての経験だ。それに私は、自分の買い手に尻尾を振るような気持ちにはなれなくてね」

「私が貴方の事で叔父をせっついたというのなら、それは私が貴方に同情したからよ」彼女の口調には、彼との会話中に感じ取った嘲りと軽薄さの混合をとがめるように、やや深刻さが含まれていた。

 彼女は続けて自分の行動について解き明かした。「私の叔父は、貴方からすれば非情な人に見えるでしょうね。それは事実よ。プランテーションの経営者というのは皆、非情な人達だもの。それが現実、と私は思っているわ。でも、ここにはもっとたちの悪い人達がいるの。たとえばスペーツタウンのクラブストン氏。あの人は叔父が選んだ後の残りが売りに出されるのを待ってあの突堤にいたけれど、もし貴方が彼の手に落ちていたらと思うと……。ぞっとするわ。それが理由よ」

 彼はいささか当惑した。

「その赤の他人に対する関心ですが……」と彼は言いかけた。それから探りを入れる方向を変えた。「他の囚人達だって、同情に値したでしょうに」

「貴方は他の人達とは全然違って見えたのよ」

「私は彼等とは違う」彼は言った。

「あら!」アラベラ嬢は彼をにらむと、つんと顎を上げた。「お高くとまってるのね」

「逆ですよ。他の者達は全員、立派な叛乱軍の闘士だ。私はそうじゃない。それが違いです。私はイングランドには浄化が必要だと判断するだけの知性を持ちあわせていなかった。私がブリッジウォーターで医術に専念する事に満足している間、見識ある人々は薄汚い専制君主と悪辣な腰巾着どもを追い払う為に血を流していたんですから」

「貴方!」と彼女が阻んだ。「謀反の事を言ってるのよね」

「曖昧な物言いは、しないように心がけています」彼は応じた。

「そんな話を聞きつけられたら、鞭で打たれるわよ」

「それは総督が許さないでしょう。彼は痛風にかかっているし、夫人は気鬱の病だ」

「それを盾にとるつもり?」彼女は軽蔑を隠さなかった。

「貴女は痛風にも、恐らくは気鬱の病にすらかかった事はないのでしょうね」彼は言った。

 彼女は少し苛立ったような仕草をすると、しばし彼から視線を外して海に目を向けた。突然に彼女は再び彼を見た。彼女は眉を寄せていた。

「でも、叛逆者でないのなら、何故ここにいるの?」

 彼女が理解したのを見て取ると、彼は笑った。「そう、話せば長い物語だ」彼は言った。

「そして多分、話すのは気が進まないような物語?」

 ごく簡潔に、彼は事情を話した。

「ああ!なんて卑劣な!」彼が語り終えた時、彼女は叫んだ。

「おお、それこそが我等がジェームズ陛下のしろしめす麗しき国、イングランド也!だから私を哀れむ必要はない。諸々を考え合わせれば、私はバルバドスの方が気に入っているんですよ。少なくともここでは、人は神の存在を信じる事ができる」

 話しながら彼は右方から左方に、ヒルベイ山の遠く霞む威容から、天空より吹く風によって波立つ広大な海原へと視線を動かした。すると、その雄大な眺望が、彼に己の存在の卑小さと、苦難の瑣末さを悟らせようとしているかに思えた。

「それは、他の土地ではそんなに難しい事なの?」そう尋ねる彼女は非常に厳粛であった。

「人間がそれを難しくしているんです」

「わかるわ」彼女は少し笑ったが、ブラッドにはそれが悲しげな調子に聞こえた。「私はバルバドスをこの世の天国だなんて思った事は一度もないわ」彼女は打ち明けた。「でも、貴方の方が、私より世の中を知っているのは確かね」彼女は小さな銀柄の鞭を馬にあてた。「貴方の不幸が少しでも和らいで、よかったわ」

 彼はお辞儀をし、そして彼女は馬を進めた。黒人奴隷達は慌てて立ち上がると彼女の後を速足で追いかけた。

 しばしの間、ピーター・ブラッドはその場に立ち尽くしていた。彼女が彼を残して行った場所は、眼下にカーライル湾がきらめき、カモメが騒がしく羽ばたく広い港で船積みが行われる様が一望できた。

 これは充分に雄大な眺望だ、と彼は思案した。しかしここは牢獄であり、そして彼はイングランドよりもこちらを好むと宣言する事によって、人が己の不運を矮小化して見せるような殊勝な姿勢に自己陶酔していたのだ。

 彼は振り返ると再び自分の目指す道を進み、泥と編み枝で作られた小屋の雑然とした密集――プランテーション奴隷達が居住している、そして彼自身も共に寝泊りしている、柵で囲われた小さな村――に向かって大股で歩み去った。

 彼は心の中でラブレス[註1]の詩を諳んじた。

『石壁とて監獄を作るにあたわず、
鉄棒とて牢屋を作るにあたわざる也[註2]』

 けれども彼は、この一節に新たな意味を、作者が意図したのとは正反対の意味を与えた。監獄は監獄だ。彼は熟考した。壁も鉄格子もなくとも、どんなに広くとも、そこが監獄である事に変わりはない。そしてこの朝、それを悟って以降、時に加速度がついたかのように、彼の認識は益々強まっていった。毎日のように、彼は己の切り取られた翼について、己の世界からの排除について、そして僥倖として己に許された自由のあまりのささやかさについて考えるようになった。そしてまた、仲間である囚人達の不運と、比較的安楽な自分の境遇とを比較して満足しようとするのもやめた。むしろ、彼等の不幸について深く考える事により、彼の心には恨みがつのった。

 ジャマイカ商人によってブラッドと共にこの地に連れてこられた四十二名のうち、ビショップ大佐は少なくとも二十五名を購入していた。残りはより小規模なプランテーション経営者に買われ、スペーツタウンや更にその北へと連れて行かれた。後者の多くについては知る術はないが、ビショップの奴隷達については、大半が悲惨な状態にあるのを彼等の寝屋に自由に出入りできるが故に知っていた。彼等は日の出から日没まで砂糖農園で酷使され、もたつきでもしようものなら奴隷監督とその部下達の鞭が飛んだ。彼等はぼろを着ており、中には裸同然の者もいた。劣悪な場所で寝起きし、そして彼等の大半は塩漬け肉とトウモロコシ団子という食事のせいで栄養不足から体調を崩し、ビショップが自分の為に奉仕する間は奴隷の命にもいくらかの価値があるのを思い出して、病人が多少ましな手当てを受けられるようにしてくれというブラッドのとりなしを受け入れる前に、二名が病気で死亡していた。残忍な奴隷監督のケントに反抗した者の一人は、見せしめとして僚友の目前で黒人の使用人によって死ぬほど激しく打ちすえられ、そして森の中に逃げるという誤った選択をした別の者は、追跡され、連れ戻され、鞭打たれ、そして命ある限り逃亡した叛逆者(fugitive traitor)として世に知られるようにと、額に「F.T.」の焼き印を押された。当人にとっては幸いな事に、この哀れな者は鞭打ちの末に死亡した。

 そのような事件の後、残りの者達の間を精気のない、放心したような諦めが支配した。最も反抗的な者達は鎮圧され、そして己の理不尽な運命を悲痛な覚悟と共に受け入れたのであった。

 ピーター・ブラッドだけは、このような過酷な苦しみから免除されており、己の属する人類という種に対して日々深まりゆく憎悪と、人間がこれほどまでにおぞましいやり方で造物主の美しいみわざを汚している場所から逃れる事に対する日々深まりゆく憧れという内面の変化を除けば、一見変わりないままでいた。ここでは希望を見いだす事は許されなかった。しかし、にもかかわらず、彼は絶望に屈しなかった。彼は陰鬱を笑顔の仮面で隠して我が道を行き、ビショップ大佐の利益の為に病人を治療し、ブリッジタウンで開業している二人の別の医師達の領分を徐々に侵食していった。

 囚人仲間が受けている下劣な懲罰と窮乏を免除されていた彼には自尊心を保つ事が可能であり、彼が売りとばされた非情な農園主からさえ厳しい扱いはされなかった。その全ては痛風と気鬱の病に負うていた。既に彼はスティード総督からの尊重を獲得しており、そして――更に重要なのは――彼は臆面もなく、そして皮肉っぽく、追従(ついしょう)を口にして機嫌を取る事により、総督夫人からも重んじられるようになっていた。

 時折、ビショップ嬢の姿を目にする事もあり、二人が顔を会わせる機会は滅多になかったものの、彼女の方はブラッドに対する興味を示して、幾度か会話を交わす為に呼び止めようとした。彼の方は、決して長居しようとはしなかった。彼は彼女の繊細な外見に、彼女の若々しい魅力、彼女の明るさ、少年のような身ごなしと快活さ、少年のような声に騙されないようにと自分に言い聞かせた。今までの全人生――それも非常に様々な経験をした――において、彼は一度も彼女の叔父より酷いと思える男に出会った事はなく、そして彼にはあの男と彼女を分けて考える事ができなかった。彼女はあの男の姪であり、同じ血が流れており、そしてその悪徳のいくらかは、あの裕福な農園主の無慈悲な残虐性のいくらかはきっと、彼女の快活な体にも宿っているに違いない。彼は己にそう言い聞かせた。彼は非常にしばしば、異議を申し立てる本能に応酬して説得するかのように、このような論を内心で展開し、可能な限り彼女を避け、不可能な時にはそっけなく応対する際にも、このような論拠を己に用いた。

 彼の推論がまことしやかであったとしても、妥当なものに思えたとしても、しかしそれでも彼は、その推論と対立する直感をもう少し信じてみるべきだったのだ。ビショップ大佐と同じ血がその血管に流れているとはいえ、それでも彼女は叔父を損なっている悪徳にとらわれてはいなかった。何故ならば、そのような悪徳は血統に由来するものではなかったのだから。そのような資質は、大佐に関して言えば後天的に獲得されたものだった。彼女の父親トム・ビショップ――つまりビショップ大佐の実兄――は、親切で騎士道精神を備えた穏やかな心の持ち主であったが、まだ若い愛妻の早世に心引き裂かれた結果、住み慣れた世界を捨てて新世界で深い悲しみを癒そうとした。当時五歳の幼い娘を連れてアンティル諸島までやってきた彼は、農園主として第二の人生を送るつもりだった。成功を求めて汲々としない人間が時に大きな成功を収める事がままあるが、彼もその例に漏れず、当初から事業は上々に行った。事業は成功し、彼は故郷ではいささか乱暴者として噂されている軍人の弟について考えるようになった。彼は弟にバルバドスに来るように勧めた。別の時期であったなら鼻で笑われたかもしれない助言だが、それは丁度ウィリアム・ビショップの放縦な気質が環境の変化を欲していた折に届いたのであった。やってきたウィリアムは、寛大な兄によって、豊かなプランテーションの共同経営者として迎えられた。六年ばかりが過ぎて、アラベラが十五歳の時に父親は亡くなり、彼女は叔父の後見に託される事となった。恐らくこれはトム・ビショップの過ちであろう。しかし彼自身の人柄の良さ故に、彼は他者に対しても好意的な評価をしがちな傾向にあった。それに加えて、既に彼自身が娘の教育を行なっていたのであるが、恐らく彼としても度が過ぎたと考えるほどの独立心を娘に与えていた。このような背景により、叔父と姪の間に通い合う愛情は無きに等しいものであった。しかし彼女は叔父に逆らわず、そして彼も姪の前では慎重に振舞っていた。経験的にも、本能的にも、彼は兄について畏怖すべき価値ありと判断するだけの洞察力はあった。そして現在、兄に対する畏敬の幾許かはその子供に対して引き継がれたかのようであり、プランテーション経営に関する実務を執ってはいないものの、彼女はある意味で彼の共同経営者に等しい存在だった。

 ピーター・ブラッドは――人は皆、そのような判断をしがちなものだが――不充分な知識から彼女を判断したのである。

 間もなく彼は、その判断に修正を迫られるはずであった。五月も終わりに近いある日、暑さが厳しさを増しつつあった頃、カーライル湾に傷つき破損したイングランド船、プライド・オブ・デヴォン号がたどり着いた。フリーボード(乾舷)は傷つき壊れ、船体は大きく裂けて破損し、ミズンマスト(後檣)は根元からへし折れて、ぎざぎざした丸太の断面だけがそこに何が立っていたのかを物語っていた。この船はマルチニーク沖で活動中に二隻のスペイン宝物船と行き合ったのだが、船長の証言によれば、何らの挑発行為もしていないにもかかわらず、突如スペイン船が彼の船を取り囲み、もはや交戦は避けられなかったのだという。スペイン船の片方は戦闘から離脱したが、プライド・オブ・デヴォン号はそれを追跡可能な状況ではなかった。もう片方は既に沈んだが、しかしそのスペイン船が運んでいた財宝の大半をイングランド船に積み替えるには間に合ったのだと。実際の処、これはセント・ジェームズ宮殿(英国王室)とエル・エスコリアル(スペイン王室)との絶え間ない揉め事の原因であり、双方が常に相手に苦情を申し立てている、珍しくもない海賊行為の一例であった。

 しかしながらスティードは大方の植民地総督の流儀として、イングランド船員の話を額面通りに受け止めるほど鈍い振りをするのを厭わず、その証言に反する如何なる証拠も無視した。彼もまた、バハマから本土までのあらゆる国の人々が共通して抱いている、傲慢で威圧的なスペインに対する憎悪に事欠かなかった。それ故に、彼はプライド・オブ・デヴォン号をバルバドスの港に庇護し、修理に必要なあらゆる便宜を図ったのである。

 しかしプライド・オブ・デヴォン号が到達するより前に、船体と同様に酷い攻撃を受けて負傷した十二名以上のイングランド船員達が船を離れてやってきた。そして彼等と共に、英国船に乗り込んだまま取り残されてしまった、スペインのガレオン船からの切り込み隊の生存者であり、同じく負傷した半ダースほどのスペイン人も連れてこられたのであった。この負傷者達は埠頭の倉庫に運ばれて、彼等の看護の為にブリッジタウンの医師が呼び寄せられた。ピーター・ブラッドもこの仕事に手を貸すように命じられたが、彼がカスティリャ語を話せる――彼は母国語同様、流暢にそれを話した――という理由と、奴隷という下等な境遇にあるという理由から、彼にはスペイン人の患者があてがわれた。

 現在のブラッドには、スペイン人に好意を持つ理由はなかった。彼が経験したスペインの刑務所での二年間と、その後のネーデルラントにおける対スペインの戦闘は、スペイン人の気質の全く褒められたものではない側面について嫌というほど思い知らせてくれた。にもかかわらず、彼は骨身を惜しまず医者としての職務を熱心に果たし、個々の患者に対しては、事務的なものではあるが表面上は愛想良く接していた。速やかに首を吊られる代わりに怪我の治療をされた驚きのあまりにか、彼等はスペイン人としては非常に異例といえる従順な態度をとった。しかしながら彼等は、慈善精神を発揮して傷ついた英国船員達の為に果物や花や食物の見舞いを携えて仮設病院に集まってきたブリッジタウンの住民達からは避けられていた。実の処、このような住民達の何割かの望みはスペイン人達が害獣のように処分される事であり、ピーター・ブラッドは初っ端からその実例を経験していた。

 助手として小屋に送られた黒人奴隷の手を借りて骨折患者の脚を固定していた時、ブラッドにしてみればこの世の人間の中でこれ以上嫌な声も他にない、野太いどら声が突然彼を詰問した。

「貴様、そこで何をしている?」

 ブラッドは自分の作業から顔を上げなかった。その必要はなかった。声の主はわかっていた。

「脚骨折の治療中です」彼は手を止めずに答えた。

「見ればわかる、馬鹿めが」ピーター・ブラッドと窓の間に巨体が割り込んだ。藁上に寝かされた半裸の男は、この侵入者を見上げる為におそるおそる土気色の顔から黒い目をぎょろりと動かした。敵がやってきたのだと理解する為に英語の知識は不要だった。その声の荒々しく威嚇的な響きが事態を充分に物語っていた。「馬鹿めが、そのごろつきが何者かも見ればわかるぞ。誰がお前にスペイン野郎の脚を治す為に暇をやった?」

「私は医者です、ビショップ大佐。この男は傷を負っている。私は患者のえり好みはしない。自分の職務に専念するだけです」

「何だと、ふざけるな!貴様が医者の職務に専念していたら、今頃こんな処にいるはずがないだろうが」

「それどころか、私がここにいるのは私がそれを実行したからです」

「ふん、でまかせを言いおって」大佐は冷笑した。そしてブラッドが意に介さず作業を続けているのに気づいて、彼は激怒した。「手を止めてこっちを見ろ!私が話しているんだぞ!」

 ピーター・ブラッドは中断したが、しかしほんの一瞬の事だった。「患者が痛がっていますので」彼は短く告げると施術を再開した。

「痛がっているだと、こいつがか?それは結構な事だ、忌々しい海賊の犬めが。こっちを見んか、反抗的な与太者め」

 自分に対する挑戦と受け取って激怒した大佐は怒声を上げたが、それに対しては平静なる黙殺という更なる挑戦的な態度で応じられた。彼の長い竹の杖が振り上げられた。ピーター・ブラッドの青い目はそのひらめきをとらえ、強打を阻止する為に彼は素速く説明した。

「反抗には該当しないはずです。私はスティード総督の特命に従って行動しているのです」

 大きな顔を紫色に染めて、大佐は腕を止めた。彼は口を開いた。

「スティード総督だと!」彼は鸚鵡返しに言った。それから杖を下げ、くるりと身を返すと、ブラッドにはそれ以上の言葉をかけずに小屋の奥に向かい、総督のいる場所に移動した。

 ピーター・ブラッドはくすりと笑った。しかし彼の勝利感は人道主義的な考えよりも、己の残忍な所有者のもくろみを妨げてやったという思いによる方が大きかった。

 スペイン人は、この医者が本来の帰属に逆らって自分を庇っているが故の諍いなのだと察し、思い切って何が起きたのかを小声で訊ねてみた。しかし医者は黙って首を振ると治療を続行した。彼の耳は今、スティードとビショップの間で交わされている言葉を聞き取るべく集中していた。大佐の巨体は、しなびた体をゴテゴテと着飾ったちびの総督を見下ろして、猛り狂い怒鳴り散らしていた。だが、ちびの洒落者は脅しに屈しなかった。総督閣下は自分の背後には世論の支持があると自認していた。ビショップ大佐のように無慈悲な見解を持つ者は、皆無ではないが多くもなかった。総督は己の権限を主張した。ブラッドが負傷したスペイン人の看護にあたっているのは彼の命令によるものであり、彼の命令は実行されて当然なのである。これ以上は言うべき事はない。

 ビショップ大佐は意見を異にしていた。彼の見解では言うべき事は山ほどあった。仰々しく、やかましく、猛烈に、口汚く――怒りに駆られると口汚い言葉がいくらでも沸いて出るので――彼はそれをまくしたてた。

「まるでスペイン人のような物言いだな、大佐」と総督は言い、大佐の誇りに数週間は痛むであろう傷を付けた。思わず言葉を失い、返す言葉を見つけられなかったが故の憤慨により、彼は足を踏み鳴らして小屋から出て行った。

 それから二日後、ブリッジタウンの婦人達、つまりはプランテーション経営者や商人の細君や娘達が埠頭に最初の慈善訪問を行い、負傷した船乗り達への見舞いの品を運んできた。

 ピーター・ブラッドは依然としてそこで患者の世話をしており、誰からも顧みられない不運なスペイン人の間を動きまわっていた。全ての慈善、全ての見舞いの品は、プライド・オブ・デヴォン号の乗組員達に向けられたものであった。そしてピーター・ブラッドは、それを至極当然の事と考えていた。だがそれまで治療に没頭していた彼が、ふと患部から顔を上げると、驚いた事に、人だかりから離れた一人のレディが、いくつかの食用バナナと一束のみずみずしいサトウキビを彼の患者のベッドカバー代わりに掛けてやっていたマントの上に置く姿が見えた。彼女はラベンダー色の絹で優雅に装い、バスケットをたずさえた半裸の黒人奴隷を後に従えていた。

 ピーター・ブラッドはコートを脱いで粗い織りのシャツを腕まくりし、血で汚れたぼろ布を手にして、しばし彼女を見つめたまま立っていた。彼に気づいて唇に微笑を浮かべながら振り返ったレディは、アラベラ・ビショップであった。

「その男はスペイン人ですよ」と、誤解を正すように彼は言ったが、その声には心中の嘲りめいた感情が露骨に滲んでいた。

 彼女のうれしそうな微笑は唇の上で消えていった。彼女は態度を硬化させながら、眉を寄せてしばし彼をにらんだ。

「ええ、わかっています。でも、その人も人間には違いないでしょう」彼女は言った。

 その答えと言外の非難は彼を驚かせた。

「貴女の叔父上の大佐殿は、別の意見をお持ちのようですよ」彼は気を取り直してそう言った。「大佐は彼等の事を、苦しみを長引かせる為に生き延びさせた害虫で、怪我が化膿してそのまま死ねばよいと思っておられるようだ」

 彼女は彼の声に込められた皮肉が、より明確になるのを感じ取った。彼女は彼を見つめ続けた。

「どうして私にそんな事を話すの?」

「貴女が大佐の不興を買うかもしれないと警告する為に。もし大佐が自分の流儀を通していたなら、私は決して彼等の傷を治療する事を許されなかったでしょうから」

「そして貴方は、当然、私が叔父と同じ考えに違いないと思ったのね?」彼女の言は歯切れよく、ハシバミ色の瞳は険悪で挑むようにきらめいていた。

「御婦人に対する失礼など、考える事すらしたくはないのだが」と彼は言った。「しかし貴女が彼等に見舞いの品を与えた事が叔父上の耳に入ったら……」彼は皆まで言わずに「つまり、まあ――そういう事です!」と締めくくった。

 しかしこのレディは全く納得していなかった。

「初めに貴方は私の事を不人情、次に臆病者って決めつけたのね。なんとまぁ!婦人に対する失礼は考える事すらしたくないという人にとって、それはちっとも失礼じゃないという訳なの」彼女は少年のような笑い声を響かせたが、しかし今回、それは耳障りに聞こえた。

 彼は今、初対面のような気持ちで彼女を見つめ、自分が如何に彼女を誤解していたのかを理解した。

「それは、だが、私に想像できると思いますか……あのビショップ大佐が、自分の姪に対してなら寛大な心を持てるだなんて?」無謀にも彼はそう言った。何故なら彼は、突然の後悔に駆られた人間が往々にしてそうなるように無謀になっていたので。

「貴方にはそんな想像なんて、できなくて当然なんでしょうね。貴方の推測がよく当たるだなんて考えちゃいけなかったんだわ」その言葉と目付きで彼を怯ませると、彼女は自分の黒人奴隷と彼が運んできたバスケットの方に向きを変えた。そこから一杯に詰め込まれていた果物と食物を取り出すと、アラベラ嬢は六名のスペイン人のベッドにそれらを積み上げ始め、最後の者に配り終えた時にはバスケットは空になり、彼女の同国人に振舞うものは残っていなかった。実際の処、彼等には彼女の見舞い品など必要なかった。何故なら英国船員達は――彼女がしっかりと観察したように――他の見舞い客達から有りあまるほどの品々を贈られていたのだから。

 そうしてバスケットを空にすると、彼女は黒人奴隷を呼び、ピーター・ブラッドには一言もかけず、一瞥すら与えずに、背筋をしゃんと伸ばし顎をつんと上げ、優雅に裾を引いてその場から退出した。

 ピーターは彼女の出発を見送った。そして彼は溜息をついた。

 自分が彼女を怒らせてしまったのを気に病んでいるという事実に思い当たり、彼は驚いた。これが昨日ならばどうとも思わなかっただろう。彼女の本質が明らかにされたからこそ、そう感じるようになったのだ。「バッドセス(不運)[註3]に祟られてしまったな。私は人間性について何も理解していなかったような気がする。だが、ビショップ大佐のような悪魔を生み出した一族が、聖女を生み出す事もできるなんて、誰に想像できる?」



[註1]:リチャード・ラブレス(1617年 - 1657年)
17世紀英国を代表する宮廷詩人。チャールズⅠ世に忠実であった為に清教徒革命時には二度も投獄された。代表作"To Althea, from Prison,"、"To Lucasta, Going to the Warres."等。

[註2]:ラブレスの"To Althea, from Prison (獄中より、アルテアに)"からの引用。1642年の清教徒革命勃発時にウェストミンスターのゲートハウス刑務所内で書かれた詩。拘禁生活の中での魂の自由を詠った。

[註3]:bad cessはbad luckに同じ。アイルランドで使われる言い回し。

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Captain Blood本編の全訳に加え、時代背景の解説、ラファエル・サバチニ原作映画の紹介、短編集The Chronicles of Captain Blood より番外編「The lovestory of Jeremy Pitt ジェレミー・ピットの恋」を収録

1685年イングランド。アイルランド人医師ピーター・ブラッドは、叛乱に参加し負傷した患者を治療した責めを負い、自らも謀反の罪でバルバドス島…

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