The Lost King~失われし王ルイ=シャルル第一部(9)追跡
Ⅸ. 追跡
ド・バッツの決断が下されたのが、極めて差し迫った時点であったのは明白である。
政府の要員中、少年の逃亡を知らされていた者がどれだけいたのかは正確にはわからないが、少なくともバラスとフーシェは事態を把握し、後者が極めて困難な捜索を行なっていたのは確かである。ド・バッツの読み通り、公共の安全【註1】という名目の下に放たれた密偵たちが、捜索対象である少年の正体を告げられていたとは考え難い。恐らく彼らは、偽のルイ十七世を擁立する王党派の陰謀があると説明され、黄色い髪と、その他諸々の特徴が人相書きと一致する、両親と同居しておらず、現在地が何処であれ最近になって現れた子供、そして被保護者である子供との関係についての後見人による説明が不明瞭であり、近在との付き合いを避けている者たちを探し出すように命じられていたと思われる。これについては、指令を出した側も、最初から成果を上げる見込みは万に一つと考えており、ある些細な事実が興味を引くような事がなければ、空しい探索に終わっていただろう。
少年は、ムードンの有名な銀行家プティヴァル氏、熱心な王党派として知られながらも、政府が深刻な財政問題を抱えていた為に革命の最も暴力的な時期にも干渉されずに済んでいた人物の邸宅にいた。使用人を含む家人に対しては、少年は恐怖政治によって両親を失った、プティヴァル氏の甥という事で通されていた。更にプティヴァルは、少年の身許に関する疑いを逸らす為に、実際には既に自分の許にいるタンプル塔の囚人について引渡しを要請する交渉を公安委員会に対し試みていたのである【註2】。この小細工は、秘密裏に王の安全を図らねばならぬ状況下においては策の弄し過ぎとなった。異常なまでに目ざといフーシェは、この要求は単なる戦略上の偽装だけではなく、実体があるのではないかと考えた。彼は調査の為に密偵を送り、およそ十八ヶ月前からムードンのプティヴァル家に滞在している、十歳前後の黄色い髪をした甥に関する報告を受け取った。
フーシェは自らプティヴァル家に足を運ぶ決意をし、デマレという、精力的で機転が効き、その立身出世がフーシェの権勢と密接に結びついている腹心の部下に同行を命じた。
神の摂理の計らいによって、フーシェの到着は彼の疑念についての真偽を完全に確認するには遅かった。礼儀正しい中年男性であるプティヴァルは、この議員を慇懃な態度で迎え入れた。市民フーシェのあからさまな不信――この銀行家は、まったく思いもよらぬ事実無根の疑いと主張したが――を、この場で甥を紹介する事によって払拭できず、プティヴァルは困窮した。しかしながら、折り悪しくも少年は、つい昨日、プティヴァルの末の妹である亡き母親が住んでいたブリュッセルに向かう為、ムードンを去っていた。
フーシェは少年が町を出たという証言の裏付けを得た。だが、綿密な調査によって、少年が二人の連れと共に乗った馬車が南東の方角にあるムランに向かったという事実を突き止めた時、彼はプティヴァルが旅行者の目的地を偽ったのを知った。彼の疑いは確信となった。精力的なデマレは、逃亡者を捕獲して連れ戻す際に必要となるはずの手勢として、部下を総動員し追跡行に出た。
王は二十四時間を先行していた。だが追っ手がかかっているとは知らぬ彼らは必要以上の速度を出さずに移動しているはずであり、逃亡者たちが最も近い国境線に着く前に捕まえるのは容易と想定された。
ラサールがタンプル塔から少年を救出した夜、ド・バッツと共にいた二人の内、年長者の方であるプティヴァルと再会した際に、彼らは逃走経路について議論した。プティヴァルは軍隊の動きを指摘し、ライン国境は望ましくないとした。ラインを渡る試みは、通常よりも一層厳重な身元確認を求められる可能性を意味する。従って、ドイツに向かうにはジュネーブを通る方が好ましく、其処ならば、マルタン・ルバという名の王党派エージェントが、あらゆる便宜を図ってくれるはずだ。それからヌーシャテル公国とバール(バーゼル)を通って旅を続ければいい。
「そしてその後は」と、全面的に同意したフォン・エンセ男爵が言った。「黒い森を通る。義なる神よ!目と鼻の先にあるプロイセンに行く為に世界を半周するとはな」彼は屈強で活動的な、低い声をした五十代のブロンドの巨漢であるが、その青い瞳に潜む茶目っ気が重々しい雰囲気を和らげていた。避けられぬ困難と危険が伴う計画に取り組む同志として、ラサールは即座に現状における最良の意見をまとめて見せた。入念に整えられた頭の天辺から、質の良い靴を履いた足の先まで、彼は如何にも頼りになる男に見えた。
警戒の為に止むを得ず遠回りになった旅行について冗談交じりに嘆きを口にしたものの、彼は了解した。偽造したのか、地下ルートを使って手に入れたのかは不明だが、ド・バッツはパスポートを提供してくれた。フォン・エンセ男爵はハーゲンバッハという名前のスイスのチョコレート製造業者であり、甥を伴って旅行中。ラサールはウッソンという名の事務員という事になっていた。
彼らは四頭立ての大型四輪馬車を走らせて、三日間は順調かつ退屈に国境に向かう旅を続けた。
少年は最早、ラサールの脳内と肖像画とに記録された時の、頭を鈍らされた、半ば陰鬱で半ば獰猛な子供ではなかった。彼は少ない手荷物の中に何冊かの画帳を詰め込んでいたが、其処には革命家名士たちを描いたページも少なからず含まれていた。プロイセンに着いてから、何かの役に立つかも知れないと考えたものだった。
彼は満足感と共に、王の雰囲気と振る舞いの変化を認めた。監禁生活がもたらした、むくみと青白さは、今はもう消え去っていた。彼は薔薇色の頬を回復し、しっかりした体つきと、年齢相応の賢さ、愛嬌のある快活さが見て取れた。遺伝の力か、はたまたベルサイユで過ごした幼い日の記憶によるものか、自分が途方もなく重要な立場の存在である事を理解した瞬間から、彼の快活さにはある種の威厳が加わり、また二人の旅仲間が自分に示す敬意を当然のものとして自然に受け入れるようになった。彼が追憶にふける時、特にタンプル塔における投獄の日々を思い返す場合は、母親から引き離された日までの記憶に限られていた。それ以降についての追憶は、やや曖昧で、ぼやけているようだった。けれども彼が言葉で描写して見せたものの中には際立って鮮明な場面も幾つか存在する事に、同行者たちは気づかされた。
しばしば少年はシモンについて話し、そして彼が既にギロチンにかけられた事を聞いて気の毒がった。
「彼は悪人ではなかったよ」少年は同行者たちにそう語った。「ブランデーを飲むように無理強いした時を除いてはね。あれは本当に嫌だったし、そのせいで私は病気にされたが、それでも。それを除けば、彼は滑稽な男だった。かわいそうなシモン」
シモンの妻について語る際の口ぶりには、真実の愛情に近いものと、彼女の粗野な外殻を透かして輝く生来の根源的な母性に対する感謝とが込められていた。実の母親から引き離されたばかりの時期、彼女は少年の辛い日々の慰めとなってくれた。姉については、暗黒のタンプル塔で監禁生活を続けている彼女が心配でたまらぬ様子だった。彼女について、あるいはバベット叔母様や母に言及した時、彼の青い目は涙で満たされた。
彼が二人の男の前で見せたのは傷付き易い子供の姿であったが、それでも尚、ある種の強情さや、何か粗野で乱暴な――タンプル塔の日々について痛感させられる――ものが、取り戻された生来の尊厳というマントを通して垣間見える瞬間があった。
一行は快調に旅を続けたが、切迫した状況については知る由もない為に、焦る事なく馬車を走らせていた。旅の最初の三日は、彼らは運動の為に地面に降りて、ゆっくりと進む馬車の横を一、二時間歩くようにした。しかしながら、少年はすぐに疲れてしまい、かといって、歩く速度で動く馬車に自分一人が座っているのも気が進まず、二人の男は自分たちの必要とする運動ができるような取り決めを行なった。一日交代で片方が騎馬して進み、残る片方が車中で王のお相手を務めれば良いのだ。
これは四日目の朝、オーセールでの朝食後に決定され、昨夜、彼らが泊まったプチ=パリという宿の前には、旅を再開する準備が整えられた大型四輪馬車を待たせていた。
フォン・エンセは、彼とラサールのどちらがその日に馬に乗るかを決める為にコインを投げ、そしてコインはラサールを選んだ。恵み深き摂理の指がコインを操ったのである。駅家 【註3】はプチ=パリの隣にあり、ラサールはすぐ追いつくから自分を待たずに出発するようにと告げて、そちらに馬を借りに行った。
急ぐ事なく、馬車が埃っぽいブルゴーニュ地方の小さな町を後にして険しい路を走り去る姿を見届けると、彼は踵を返して駅家に向かい、モンバールまで乗っていく馬が欲しいと注文を伝えた。
一頭の馬に、速やかに鞍が整えられるはずだった。
馬の仕度を待つ間、再び外に出ると、彼は六月の朝の日差しの下をぶらついていたが、そうする内に、ガダガタと音を立てながらやって来た埃まみれの軽装馬車がプチ=パリの入口の前に止まった。其処から三人の体格の良い男たちが降りてきたが、その一人の厳つい顔に、ラサールは見覚えがあった。それは最近、テュイルリー宮のホールでしばしば見かけていた顔だった。その事自体が本能的な警戒心を刺激し、彼らの乗り物をつぶさに点検する行動へと繋がった。馬車を覆う厚い埃は、彼らが夜を徹して旅を続けていた事を示唆していた。この旅行者たちの急ぎ方は尋常ではない。追われる者か、追う者のどちらかだ。
慎重に無関心を装ったラサールが駅家の出入り口にもたれていると、宿から彼らの到着を歓迎して家令が出て来た。すると一行のリーダーである、ラサールが見知った四角く厳つい顔の男が、家令に質問をする為に進み出た。サンス経由でやって来た二人の男と一人の少年が、この宿に泊まるか、近くに立ち寄るかしなかったか?
この質問によって状況は明白になり、同時に戸惑いも呼んだ。しかしラサールは迷いを振り捨てた。家令が向きを変えた拍子に彼の姿に目を留めて、捜索対象の一人であると告げられぬように、ラサールは中庭の出入り口の中に一歩移動した。其処から彼は、予期していた通りの答えを聞いた。ええ、確かに、そのようなお客様が昨夜、プチ=パリに御逗留になり、ほんの少し前にモンバールに向けてお発ちになりました、と。
新来の集団の一人が悪態を吐く声が聞こえたが、しかしリーダーのデマレは笑って言葉を返した。「まあ、いいじゃないか?連中の行き先は掴んでるんだ。そう腐る事はない。新しい馬に引き具を付ける間に、朝飯を済ませよう。そら行くぞ」そして彼らは宿に入っていった。
5分も経たぬうちに、ラサールは急ごしらえで馬具を乗せた馬で町から離れると、すぐに早足から襲歩にペースを変えて道路を下っていた。
自分たちに追っ手がかけられるに至った事情はわからない。だが、現に追跡されているという事実には疑いの余地はない。幸運の巡り会わせによって自分の出発を少し遅らせていなければ、間違いなく、この日の内に、一行は全員捕らえられていたはずだ。彼は後日、この摂理の恩寵は、自分を待ち受けている立身出世の前兆と解釈したと豪語した。
彼は正午近く、オーセールの先、およそ10マイルの地点で大型四輪馬車に追いついた。彼は車体後部に自分の馬を繋ぐ為に馬車を一時停止させたが、騎乗御者に鞭と拍車を使うように促してから、警戒すべき報を告げる為に車中に入った。
「ポッツタウフェル!(何てこった、悪魔め!)」フォン・エンセは、そう毒づいて驚きを表し、幼い王も思わず目を見開いていた。
「万が一にも」ラサールは言った。「ヴァレンヌへの逃亡【註4】の二の舞を演じたくなければ、我々には速度と知恵の両方が必要になる」
「我々は確実に片方を保っているのだから、もう片方もどうにかできるはずだ」プロイセン人はそう言って陽気に悪態をついた。「ヘルゴット!(神よ!)」
「多少の快適さは犠牲にしましょう」ラサールは同意し、これより先は旅館を利用せず、国境を越えるまでは、テーブルでの食事もベッドでの睡眠も断念せねばならぬと説明した。彼は再び単騎でモイヤーに先回りし、継ぎ馬を待って時間を無駄にするのを防ぐ為に、馬車が到着すると同時に馬の交替ができるように手配を済ませておくと。
「慌てる必要はありません」彼は注意した。「あの密偵たちは、我々の移動速度の見積もりについて過剰な自信を持っています。これは我々にとって幸運であり、天の賜物だ。その他の点については、俺に任せてください」
その日の午後3時に馬車がモイヤーに乗り入れた際、頼もしい事に、彼は困難な状況に対処する能力を証明してみせた。
駅家では彼らの為に継ぎ馬が待機しており、馬車が止まると同時に、ラサールが頭と肩を窓から突っ込んできた。「そのままで」彼は小声で言った。「姿を見せないで。我々はこれ以上の痕跡を残しちゃいけません。偽の手がかりを置いて去るまではね。その為の用意です」彼は窓から怪しげな包みを差し入れた。それはペチコート、ボディス、モブキャップを含んでいた。ここからモンバールまでの間、陛下が変装する為に使う品々だった。「こっちは食料。チキン、パン、チーズにワインが一本」彼は包みの後からバスケットを押し込んだ。それから馬車の中に身を乗り出すと、彼らに手はずを伝えた。
彼は既に、十頭の馬が駅家の厩舎にいるのを確認していた。この内の八頭を借りる。今、彼らが乗っている大型四輪馬車に繋ぐ四頭と、モンバールまでその後に従うように雇った継立馬車用の四頭。これで事実上、駅家から元気な馬をほとんど連れ去る結果となり、モイヤーにやってきた追跡者を数時間遅らせる事ができるだろう。
「貴方たちはモンバールで降りて、夕食をとる為に宿に入ってください」ラサールは指示した。「俺も同じようにします。ただし別々に、他人同士のふりで食事をするんです。それで捜索対象である二人の男と少年の一行は消滅します。その代わりに、娘を連れて旅をする紳士と、一人旅の紳士の出来上がりだ。これで臭跡を消すには充分でしょう」
少年は面白がり、愉快そうな笑い声を上げた。この気だるげな態度のムッシュー・ウッソンは、茶目っ気のある魅力の持ち主であるのを証明した。しかしながら、フォン・エンセは難点に気づいた。
「だがパスポートはどうする?これで、如何にして少女を国境越えさせればいいのだ?」
「国境に着くまでパスポートの出番はありません。その時までに、陛下は本来のお姿に戻っているはずですよ。騎乗御者の準備はできています」彼は説明を終えた。「では、ここで一旦、別れましょう。俺はここからモンバールまでの間に、馬車の中で眠っておきます。その後にはまた、終夜馬を飛ばして、馬車の先回りをしないといけませんからね」
そうして、スプリングに弾力がなくなって、酷くがたつく継立馬車に乗ったラサールは、フォン・エンセたちに一時間遅れてモンバールに到着した。丁度、このプロイセン貴族が不安を感じ始めた頃合であったが、これはラサールの計算によるものだった。ラサールが夕食を注文する客が来たぞと大声で叫びながら、横柄な様子で談話室を通って歩いていった時、彼は男爵の椅子にぶつかった。謝罪の為に振り向いて頭を下げる際に、彼は小声でひと言ささやいた。「パルテ!(行け!)」
フォン・エンセたちはラサールが見守る中で食事を済ませると、速やかに出発の指示に従った。
新来の客に食事が運ばれてきたのと入れ替わるように、プロイセン人は清算の為に店の者に声をかけ、大型四輪馬車を呼ぶように申し付けてから、偽の小さな娘と共に出て行った。
ラサールは、馬車が遠ざかってゆく音を耳で確かめてから、自分の存在を印象づけ始めた。驚いた亭主が慌てて駆けつけて来るように、コート・デュ・ローヌのワインを大声でこきおろしたのである。
「あきれたね!ブルゴーニュでこんなのを飲まされて、誰が納得するんだ?インクの方がよっぽどマシだ」
これは亭主が自信を持って勧めた看板ワインだぞ。まっとうな品質の、正真正銘のブルゴーニュ・ワインを期待するじゃないか。それなのに、ひとビン10リーヴル払ったら、何が出てきたと思う?――アシニャが暴落する前に、8スーで仕入れた安ワインだ、と。
若い旅行者は憤慨をつのらせた。俺が注文したのはこんなものか?それとも俺は店の連中に足元を見られるくらい貧相なのか?俺が貴族だったら、こんなワインを出されるような事はあるまいよ、貴族なら席を蹴立てて店を出て行くだろうからな。亭主に地下倉を探させろ。
亭主は彼に、口当たりの良い、熟成されたニュイのワインを持って来た。旅行者はそれを味わうと、上機嫌になった。ああ、生き返った心地だよ。旅の疲れを癒すのはこれだよ、俺はこの旅行にうんざりしていた処でね。俺はシャルトルからやって来たんだがね、織物商人の親父の用事でグルノーブルまで行く途中なのさ。彼は夕食をたいらげるまでの間、べらべらと取り留めもなく話し続けて、誤った道へと慎重に誘導する臭跡を付けた。それから彼は、来た時と同じように、さっさと引き上げて行き、ああも騒々しくて鼻持ちならぬ気取り屋が出て行った事で、亭主は大いに喜んだ。最近の政変によって成り上がった連中の一人にしか見えない、その気取り屋は、パリからの紳士たちが追っている集団の最後の一人であったのだが。
彼は真夜中過ぎに、フラヴィニーの近くで大型四輪馬車を追い越し、その翌朝には、丘に囲まれたブシーの町で待機していた。其処は、ディジョンに着く前に芝居を打つ最後の舞台だった。彼らはモンバールと同じく距離を保つようにしたが、今回は、これまでよりは緊急の度合いは少ないと判断して、ラサールは継馬の準備をしていなかった。
夕方頃にフォン・エンセがディジョンに到着すると、追跡者を引き離し、偽装工作も行なってきたという判断から、彼らは再び集まって、ブリーチズ姿に戻った王を含む全員で夕食をとった。少年は非常に疲れており、食卓では終始うつらうつらした状態で、それを見たフォン・エンセは、今夜はディジョンで宿をとるべきだと主張した。それに対し、ラサールは厳しく反対した。
「そのつもりがあったら、少なくとも陛下は変装を解くべきではなかったし、我々も見知らぬ者同士で通す用心をするべきでしたよ」
「ええい!ドンナーヴェッター!(忌々しい!)ムッシュー・ウッソン、君は影に脅えるような男だったのかね?」そしてプロイセン人の呵呵大笑が懸念を矮小化した。
「影にも実体にも脅えてはいません、ムッシュー男爵。しかし、危険を古馴染みの友としていると、用心というものの大切さを思い知るんですよ」
「だが、陛下を見たまえ」男爵は譲らなかった。「立ったまま眠り込んでしまわれそうな御様子だ。ここで我々が陛下の玉体を損なっては、後日の事も成せんだろうに。さあさあ!」彼はなだめるように言った。「幼子は、まともな寝床で眠らせようではないか」
渋々ながら、ラサールは屈服した。だが二日後のロンにおいて、国境への旅の終わりを目前にした彼は、この決断を後悔する事になる。それは丁度、男爵がディジョンだけでなく、次のドルでも宿に泊まる選択に至らせた、己の過信を後悔するのと同様にであった。
この遅延によって、ラサールにつきまとう不安は高まり、何らかのきっかけで痕跡を拾った追っ手からの奇襲を避ける為に、騎馬してしんがりを務めるという行動に繋がった。その土曜日の朝にドルを後にした彼は、ゆったりとしたペースで馬を進めて正午にはタッスニエールに着き、其処で一時間かそこら身体を休めようと歩みを止めた。その町で新しい馬に乗り換えて、夜には仲間たちと合流する予定になっているロンまでの25マイルを再び無理のないペースで進む為にであった。
タッスニエールを過ぎて5マイルほどを進み、ドリアンとセイユの二つの谷の間に位地する、なだらかな丘の上で彼は手綱を引いた。その日は温かかったが空気は澄んでおり、彼は絶好の位置から、気持ちの良い緩やかな起伏がある肥沃な平野の全貌をつぶさに観察する事ができた。空気は甘く芳しく、それは目に見えぬ膨大な生命の微かな音で震えていた。綿毛に被われた柳が縁取る遠い水上に陽の光が踊る様は、彼の芸術家としての目を奪い、魅了した。心地良く暖かな感覚を伴う陰影と、その捉え難い色合いを自分のものにしようとする事、それは己が存在の一部であり、恐らくは、ひょんな巡り合わせで舞い込んできた、玉座なき王の随行などよりも価値のある偉大な仕事だった。ラサールは、このような内省に我知らず哀歌の如き溜息を吐いたが、突然、彼は夢の中から現実まで引きずり出され、目覚めし芸術家は再び冒険家の内部に姿を消した。1マイル離れた先、彼がやって来た道の先に、土埃が上がっていた。
恐慌をきたす事なく、彼はまず、盛大な土埃の中にあるものを慎重に確かめようとした。彼は自分の馬――大きく強力な馬体であり、緊急時には大いに頼りになる――を道路脇に向けて静かに歩かせ、立ち並ぶ若木が目隠し代わりになってくれる位置で待機した。間もなく彼が見たものは、馬車ではなく騎馬した小集団だった。彼の若い目は鋭く、そして空気は先程述べた通りに澄み切っていた。半マイルまで近づいた時点で、七人が竜騎兵【註5】の装備をしているのが識別可能になった。だが、彼に不安を与えたのは、騎兵部隊の中に文民が混じっている事、その数が三名であるという事だった。この事実は、現状における仮定を検証する為に更なる時間の消費を許すには示唆に富み過ぎていた。
彼は隠れ場所から移動すると、馬に拍車をくれて、その活力について神に感謝しつつ、かつてこのような飛ばし方は一度もした事がなく、そして二度と再びしたいとも思わぬ速さでその場を後にした。全速力で馬を飛ばしながら彼が最終的に下したのは、追跡者が再び臭跡を発見したのだという結論だった。馬車ではなく騎馬で追ってきたのは、惑わされている間に失った時間を埋め合わせる為、そして確実に獲物に追いつく為に軍の協力を得たのだろう。パリからの紳士たちは、尋常ならざる武力を配備する必要があったのだ。
その推測は、綿密なはずであった計画中の見落としを直視するように強いた。ディジョンで標的が突然消え失せた事に追跡者たちが気づき、二人の男と一人の少年の足跡を辿れなくなった時にも、大型四輪馬車自体の痕跡は未だ残されていた――黒いパネルで飾られた扉が付いた黄色い車体、彼らが聞き込みを開始したムードンで、駅家の者が証言しているはずだ。あらゆる事態を見越して対策を講じたつもりでいたラサールは、この手抜かりに自己嫌悪を感じていた。知恵の回る捕吏というのは、如何なる些細な事柄も全て調べ上げてしまうものだという認識があれば、フォン・エンセによる移動速度を減じるような提案、最終的には計画失敗の原因という位置づけになるかもしれない提案に対して、根拠を伴った反論ができていたであろうに。
彼が疾走したのは、この凶事を防ぐ為であり、恐らくこの一事の他は念頭になく、無謀なペースで馬を飛ばした挙句に己の首を折るような事にでもなれば、フランス王が無事逃げおおせる為の、最後に残されたわずかな希望もまた死ぬであろうなどとは考えもしなかった。
サリエールから約3マイルの地点で、彼はディジョンとロンの間を往復する乗合馬車と行き逢った。がたぴし進む大きな車体と擦れ違う際に、多少の時間を失った代わりに、彼はある天啓を得た。更に2マイル先で大型四輪馬車に追いついた彼は騎乗御者に停止を命じた。この時に限っては、彼もフォン・エンセ男爵が旅を急がずにいた事に感謝した。
思いがけないラサールの出現に彼らは驚いた。だがそれに輪をかけて驚いたのは、彼が騎乗御者に聞こえぬように小声で手短に告げた言葉だった。フォン・エンセは酷く己を責めた。もし自分がムッシュー・ウッソンの主張に耳を傾けていれば、今のこの危険はなかったであろうと彼は潔く認めた。竜騎兵の一団に対して、我々に何ができるというのだろう?
「できますよ、今から説明する事をね」ラサールは答えた。
乗合馬車が4分の1マイルほど先に見えた。「書類と貴重品を持って、すぐに降りてください。貴方と……」彼は危うい処で口をつぐんだ。驚いている騎乗御者が、こちらを見ていたのだ。「貴方と甥御さんは、ディジョンの乗合馬車でロンまで行くんです。この暑さでは快適ではないでしょうし、混雑しているかもしれません。ですが少なくとも、それ以外の点では安全なはずですよ、あそこは暗殺者たちが探す場所としては、一番最後になるでしょうからね」彼は男爵にだけ聞こえるように声を低くした。「ロンに着いたら、其処からまた、すぐに出立してください。ジュネーブに到着するまでは休まず真っ直ぐに進むんです、俺の事は待たないで。俺もルバの家で合流できるように向かいます。遅れる可能性はありますが」
彼らが馬車を降りようとしている時、ラサールは騎乗御者に目をやっていた。「君の役目はね、口をつぐんでいる事だ。沈黙は金という諺は知っているだろう。君の沈黙には5ルイの値をつけよう。雄弁の方を選んだ場合、君は銀ではなく鉛色になる。どちらを選ぶかだけ、答えてくれたまえ、それで君の運命が決まる」彼は乗馬コートのポケットから手を引き出して、ピストルの台尻を見せた。「お互い、理解し合えると嬉しいんだがね」
上向きの鼻をした、厚かましそうな若者の騎乗御者は、肩をすくめた。「脅しはいりませんよ、市民。誓って何もしゃべりません」
「その素晴らしい姿勢を、ずっと続けてくれたまえ」
ラサールは道の中央まで汗まみれの馬を歩かせると、近づいてくる乗合馬車を停める為に片手を上げた。不恰好な車は轟きと共に停止した。驚いた乗客たちが窓から首を突き出して見守る中、乗合馬車の騎乗御者と車乗御者は二人揃って、一体どういうつもりで邪魔立てするのかと喧嘩腰で問い質した。
ラサールは溝の縁に停められた大型四輪馬車と、その横に立っている男と少年を示した。彼は言葉少なに告げた。
「馬車の事故でね。こっちの市民たちはロンに向かう途中だったんだが」
車乗御者は、当初の乱暴な態度を改めた。そういう事情なら、交渉に応じても良かろう。だが、ディジョンから乗ってきた客と同じ満額の運賃を払ってもらわねばならん。自分には料金を切り売りする権限はないのだからと。
「さあどうぞ」と男爵に向けてラサールは言った。「万事上手く収まりました。では御機嫌よう、良い旅を」
フォン・エンセはためらった。彼の陽気な顔は深刻なものになっていた。「しかし君はどうするんだ、我が友よ?」
「俺は後から行きます。時間を無駄にしないでください。それじゃ」
少年は別れの握手をする為に傍に寄ってきた。「すぐに、また会えますよね、ムッシュー・ウッソン?」
「それほど先にならないように努力してみます」ラサールはそう言ったが、それはつまり、男爵が頼もしさを感じたラサールの愛想が良い生来の気楽な性質からすれば、この時の彼が懸念で一杯になっていた事を意味していた。
ほとんど押し込むようにして彼らを乗せると、ラサールは馬車が走り出すのを見送った。窓から少年が彼に手を振っていた。返礼として帽子を脱いで振り回し、それから彼は騎乗御者を振り返った。
「さて、これで君が5ルイを手に入れるまでの道のりを、半分消化したというわけだ。支払いはシャロンに着いてからだよ」
「シャロンになんか行きませんよ」
「はいはい、そうだろうね。でも議論の余地はないんだ」
「俺はロン行きの為に雇われたんですよ」若者は言い張った。
「でも、シャロンで5ルイが待ってるんだよ。一年分の賃金だ、だろ?まぁ、何にせよ、君はあそこに行かなきゃならない。さて、教えてくれるかな、サリエールの先で、シャロンまでの間にある最初の停車場は何処だい?」
「ボランに駅家があるけど」
「どれくらい先なんだ?」
「サリエールから3リーグってとこです」
「君の馬たちで行ける距離だな。それからボランで馬を替える。だが君は、シャロンへの道順と道路の状態を尋ねる為に、サリエールで停まるんだ。我々の行き先が周囲の人間に知られるようにしたい。そして、それ以外の事は一切、何も知られないようにしたい。それを忘れないでくれ。じゃ、行こうか、びしびし鞭を使ってくれよ。急いでるんでね」
騎馬した彼に続いて黄色い大型四輪馬車がサリエールの町に入り、駅家の門へ通じる道を辿った。それは丁度、フォン・エンセと王を運ぶ乗合馬車がロンを立ったのと同じ頃だった。
10分後、自分の馬を手放したラサールは、馬車の中が無人であるのに気づく人間が周囲にいない時を見計らって大型四輪馬車にさっと乗り込むと、シャロンへと向かう為に再び出発した。
訳註
【註1】:国民全体の安全に関わるような「例外的状況」にあれば、為政者は一時的に市民の自由や所有権を制限しても正当化される、という観念。
【註2】:男爵位を持つ王党派の銀行家であり、バラスと取引関係のあったプティヴァルは、ルイ=シャルルの死亡証明書を偽造であると主張。それから約一年後の1796年に、プティヴァル一家は全員殺害されている。
【註3】:駅馬を交替し乗組員を泊める宿屋。
【註4】:1791年6月20日にフランス国王ルイ十六世一家がパリを脱出し、22日に東部国境に近いヴァレンヌで逮捕された。ルイ十六世は王の国外逃亡という不名誉を恐れて計画には消極的だったが、スウェーデン王グスタフⅢ世が寵臣であるフェルセン伯爵を通じて王妃マリー=アントワネットを説得して押し切った。結果として「革命潰しを企む外国の手引きにより国を見捨てた王」としてルイ十六世は国民からの信頼を失い、急進的左派勢力が勢いづき、王と王妃の処刑にまで繋がった。
【註5】:小型のマスケット銃などの火器で武装した騎兵。
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