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なぜ幸せを感じなければならないのか、幸せをどう感じていけばいいのか

極端な話「幸せになること」は、人生の至上命題ではないわけです。
幸せになれとは誰も言っていない。

いや、親とかは言ってるかもしれないが、それはそう言う人の望みであって、「自分が幸せにならなければならないかどうか」とは別の話なので、分けて考えます。

「何が幸せであるか」が人それぞれであるように、「なぜ幸せにならなければならないのか(そもそも幸せにならなければならないのか)」も人それぞれである。

突然ですがわたしは、自分の感情を主観的に感じ取り、そうであるものと受け止め、そのまま表現することが得意ではありません。

もし、自分の感情を主観的に感じ取り、表現するまでできるのであれば、「なぜ幸せにならなければならないのか」なんて回りくどいことを考えず「なぜ幸せになりたいのか」を素直に考えればいいと思います。

ですが、その「なぜ幸せになりたいのか」が分からない。
考えていると「いや、そもそも幸せにならなければならないのか?」という疑問に発展する。

なので「そもそも幸せにならなければならないのか」「幸せにならなければならないのであれば、それはなぜか」を考えるに至りました。

しかし「幸せになる」とはどういう状態か定義しづらいので、ひとまずは「幸せを感じる」という低めの次元から考えていきたいと思います。

なぜ幸せを感じなければならないのか

なぜ幸せを感じなければならないのか。
そもそも幸せを感じなければならないのか。

これらを考えるため、逆に「幸せを感じていない状態が続くとどうなるか」から考えます。

幸せを感じていない状態が続くとどうなるか。

わたしの場合、死にます。

(究極的には多くの人がそうかもしれない)

もちろんただちに死ぬわけではないですが、最終的には死にます。わたしの場合、理由の大半は「躁鬱を患っているから」です。

躁期や何でもない期間であれば、改めて幸せについて考えることなんてあまりありませんが、鬱期に突入した途端、過去への後悔と、未来への不安で死を検討することになります。

この検討の時間がつらい。
常に選択を迫られており、生きるという選択を決定し続けなければならない。
選択は、行うことそのものがストレスです。内容が明るくないものであればなおさらです。
これを逃れるために、さらに死を検討します。もう疲れました。

しかし(鬱期ではない今)冷静に考えてみると、死を検討する理由は「現在にあるつらいこと」ではありません。

「過去への後悔」と「未来への不安」です。

であれば対抗できるのは「現在にある何か」のみではないでしょうか。

これが、わたしにとっての「幸せを感じなければならない理由」です。

要するに、

当面死にたくないんだけど、
「過去への後悔」や「未来への不安」から
ど〜しても死を検討してしまうことはあるし、
その時間自体がつらくて死にたい。

この死にたさの理由となっている
「過去への後悔」や「未来への不安」に
「現在にある何か」で対抗できないか?

というお話。

ここで、そもそも死んではいけないのか、という問題がある……。
主観で決めていいと思う。自分の感情を主観的に感じ取ることが難しいわたしは、夫への裏切りになるという理由から、一応「死を検討することはよくないこと」という価値観を得ています。(それでも状況によっては裏切り得るということはまた別の話として)


幸せをどう感じればいいのか

では「過去への後悔」や「未来への不安」に対抗できる「現在にある何か」、つまり「現在感じられる幸せ」をつくるためには、どうすればいいのか。

そもそも自分は、何をしている時に幸せを感じられるのか。

「幸せ」の科学的な正体は、自ら分泌される「幸せホルモン」であると考えられます。

つまり、幸せを感じられる量の幸せホルモンが分泌されれば「現在感じられる幸せ」を得ることはできる。

次の問題は「幸せホルモンをどうやって分泌させるか」になると思いますが、それを解決するための書籍や情報は、この世にたくさんあります。インターネットでも得ることができます。

しかしそれでも幸せを十分に感じることができていないのだから、さらなる問題があると考えられる。

それはおそらく「自分の身体が分泌しやすい幸せホルモンは何か」という問題です。(もちろんバランスよく分泌することが理想ではあります)

あればいいんですよ。十分な量が。
でも困っているのは、十分な量がないから。

十分な量を得るために足りていない可能性があるのは、十分な幸せホルモンを分泌するための行動。……の他にもう一つ。

幸せホルモンをどうこうするための機能です。

実際に、ADHD傾向のある人は(わたしがそうです)一般的に、幸せホルモンの一種であるドーパミンの働きが不十分であったり、セロトニンが不足していたりするといわれます。

ここから、できると考えられるアプローチは二つ。

①ドーパミンやセロトニンを分泌するための行動を滝のように行う。
②他の幸せホルモン(オキシトシンやβエンドルフィン)で補う。

結局は①が不可欠なわけですが、正直地獄です。やってもやっても効果がない場合が多い。無為感。
そもそもドーパミンに至っては、ドーパミンが出ていないのにどうやってアクションを継続すればいいのか。できていれば、現在に対して空虚を抱え、過去未来に悩まされることもあまりないであろう。


それでも幸せを感じるために必要なこと

そうであっても、幸せを感じなければ生きていけないのであれば、幸せを感じなければならない。

(乱暴な言い方をすれば)幸せを感じるための機能が不足している自分に、必要なことは何か。

当然、行動もそうなんだけど、
行動と同じくらい、これまで考えてきたことを忘れないことが大事。

生きたい! 死にたくない!
と思うより、自分にはずっと大事です。
だって、その感情がなんかもう、自分にとってはなんなのか、分からないのだから……。

自分の感情は上手く捉えられないし、捉えられたとしてもたぶん躁鬱のせいで変わってしまうし、それが正しい感情なのかどうかも分からない。(正しい感情とか言っている時点で、自分の感情を捉える才能がない……)

でもこれまで考えてきた
①幸せを感じなければならない理由 と、
②幸せを上手く感じられない理由 を覚えておけば、

「そうだよね。うんうん。幸せを感じなければならない。
でも、上手く感じられないんだよね。そのためには……」

という考え方にシフトしていくことができる。
というか、そもそも「考える」ことができるのです。
考えることは、感情とは別のものと捉えています。

感情を捉えることが苦手だけど、だから上手く捉えられるようになりたいのかというとそうではなく、正直、感情から解放されたい。

個人的には「死にたさ」は「感情」ではなく「感覚」だと思っているんだけど(この話はまたどこかで)、だとしてもこの「感覚」に対する「感情」が、イコールつらい。

過去への後悔や未来への不安も「感覚」であり、それに対する「感情」。

過去や未来について「現在」で対抗することと同じくらい、感覚や感情について「考えること」で対抗することも大事だと思われる。

要するに、

「過去への後悔」と「未来への不安」と「感情」が生きる邪魔をしがちなので、
「現在感じられる幸せ」と「(感情を切り離して)考えること」で死から遠ざかっていこうというお話。

長々と書いておいて凡庸な結論かもしれないけど、
幸せになれと誰も言っていない人生において、これはわたしにとってとても大切な考え方なのです。

最近ガチャガチャで引いた、シークレットのクリームソーダ。

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