過去の自分を許せなくて死にたくなる2024年8月10日の日記
久々に日記を書く。
noteの存在を忘れていたわけじゃない。「書きたいな」という気持ちはあった。けれど、時間を取れなくて、気付いたら最終更新から2か月以上経っていた。
期間が少しでも空くと、ブログを書くモチベーションはぐっと下がる。マラソン中に足を止めてしまい、次の一歩がなかなか踏み出せないような、そんな感じに似ている。
ブログを真面目に書こうとすると、かなりのエネルギーを使う。だからこそ、投稿できたときの達成感も、継続できているときの嬉しさもひとしおだ。
ただ、私は達成感や満足感に飲まれやすい人間で、ある程度続けると生活がブログに侵食されていく。「これ今日のネタかな」「案外これについて書くと面白いかも」など。日々あったことを忘れないためにブログを書いていたはずなのに、いつの間にか目的がズレていく。
少しでもブログのネタを探しながら過ごすというのは、裏を返せば、日常の些細な選択の場面で少しでも面白くなりそうな方を選ぶ、ということでもあって。それはつまり、日常がより面白いで満ちていくのだから、別に悪いことではない気がする。
けれど、その面白いは必ずしも自分の面白いじゃない。他人の面白い(バズ)を狙ってる。見ず知らずの他人の面白いを考えながら過ごしてる自分って、なんだかしょーもないなとも思う。
そんなことを思うと急に白けてきて、ブログの更新を止めてしまう。止めたところで、なにも損はないのだから。
しかし、少しでもブログを書く生活を続けると、常に言葉がぽろぽろ出てくるようになる。内側から出てくる言葉を吐き出してスッキリしたくて、またブログを更新する。そんな繰り返しを、かれこれ16年ぐらい続けてきた。
とぎれとぎれでもいいから同じ場所(サイト)で更新し続けていたら、それなりにボリュームがあって面白かったかもしれない、と今になって思う。
ああ、でもやっぱりそんなのは、私自身が許せないかもしれない。
私は、自分のことがあまり好きじゃない。
私は過去にいろんな失敗をしてきた。みんなそんなもの、と読んでいる人は思うだろうし、私もそう思う。けれど、私が過去を振りかえるとき、他人は関係ない。私が過去に失敗や間違いを犯したか。その一点だけが大切で、他人の失敗の有無や数はさほど重要じゃない。そこで他人を見て楽になれる性格だったら良かったのにね。
毎日ふとしたときに過去の失敗を思い出して死にたくなる。厳密には「死にたくなる」は間違いで、「当時の自分をなかったことにしたい」が正しい。けれど、過去の失敗を思い出したときに、とっさに出る言葉として後者は長すぎるので、「死にたい」を多用している。
そんな私が過去のブログにいつでもアクセスできるようになったら……。考えただけでも恐ろしい。想像しただけで呼吸が浅くなった。
過去の失敗を思うとき、積み上がったいびつな石の光景も浮かぶ。
今の私は、積み上がった石を見ると発狂してしまう。発狂した勢いに任せて石をなぎ倒すけど、次の瞬間にはまた積み上がってる。「いま石をなぎ倒した」出来事もいつの間にか石になっていて、もう1段高くなっている。この石の塔はいったいどこまで高くなるのか、絶望しながら見上げてる。
人生は、失敗と恥と罪の積み重ねで、それらを時間をかけて許したり、受け入れたり、忘れたりしていくのだと思う。
だから、歳を取ったとき、落ち着いて石の塔を見つめられたらいいなと思う。そして塔に名前をつけられたら……なんて考えながら、また頭の中に新しい石が浮かんだ。
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