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「かわいいは自分のため」って、ちょっとうそついたかも


”かわいい”が好きなのは、そんなに良くないことなのだろうか。

「誰のためにやってるの?それ」

咎めるような口ぶりに、少し背中が丸まってしまったような気がした。
辛うじて疑問形を保ってはいるものの、それが純粋な興味から出た言葉ではないことは、わかる。


コスメにネイルポリッシュ、ひらひらしたスカート、ふんわりした袖のブラウス。
見ているだけでわくわくする、”かわいいもの”が好きだった。
同時に、”かわいいひと”になりたかった。
ちょっといいトリートメントでサラサラになった髪、いい匂いのボディクリームでもちもちになった肌、パソコンのキーボードを打つたびに目に入る、明るい色のネイル。

そこに飛んでくる、冒頭の問いかけ。

咄嗟に「自分のためだよ」と答えたものの、少しのもやもやが残る。
けれどこのときは、何故この問いかけに良い気分がしないのか、自分のためと答えたことに何だか違和感を感じているのかは、自分でもわからなかった。

―――


その時から「”かわいい”は自分のため」ということについて考えてみたけれど、今、この答えはちょっと違ったかもしれない、と感じている。

というのも、何気なくテレビで流れていたバラエティで、ある女性が、このようなことを聞かれていたのだ。

「誰のためにそんなにかわいくなりたいの?」
「モテたいから?」

この言葉にはやはりどこか棘が含まれていて、純粋な疑問とは思えない。
そして、それを聞かれた女性はこのように答えていた。

「かわいいは自分のため」
「短いスカートを履くのも、そのスカートがかわいいから」
「ピンクのネイルは、自分がときめくから」


かわいい、は、自分のため。


わたしには、そう答えている彼女が、”かわいい”を求めることを咎めるようなその質問に幾分か引け目を感じているように見えたのだ。
そこで、思う。
他人は、「誰のためにつくられた”かわいい”なのか」ということに敏感すぎるのではないだろうか。

個人差によって解釈の違いはあるものの、”かわいい”というものはそのどれもが好意的な意味を持つものだろう。
見た目や愛嬌に、仕草。”かわいい”は、周りの人を惹きつける。
それ故に、”かわいい”を追い求めることは、時に傲慢と捉えられてしまう。

―誰かのためにかわいくなろうなんて、媚び諂ってる。
―そこに自分の意思はないの?

と、自分のための”かわいい”じゃなきゃ認められないような圧力を感じるのだ。
だから彼女、いや、自分も含め、自らを守るためにこう答えたのではないだろうか。

「この”かわいい”は、自分のためです」と。


だからこそ、「誰のために”かわいい”を求めるのか?」に対する「自分のため」という答えは、気持ちのままに発したものではなかったと、思う。

半分は本当で、半分は嘘だ。
もちろん、”かわいい”は自分の意思でしていること。だけれど。
わたしは、”かわいい”と、思われたかったのだ。自分だけじゃなくて、自分の周りにいる人、全員に。

もちろん、気になるあのひとにはかわいいと思われたい。
そして、よく一緒にランチを食べる同期の女の子にも、かわいいと思ってほしい。
コンビニで調達した発泡酒を片手に、すっぴんにスウェット姿で乾杯するような関係の中学生からの友達にも。
いつもしかめっ面な堅物上司にも、頼ってくれる後輩にも。
大きな交差点で一瞬だけすれ違う、これから二度と会うことのないであろう名前も知らない人だとしてもだ。


「”かわいい”は自分のため」に感じるもやもやはこれだ。
わたしは、”かわいい”を自分の意思で求めていたとしても、そのモチベーションは誰かから認められることにあったのだ。

”かわいい”は、自分がしたくてしていること。だから、かわいいは自分のためでもある。
でも、誰かにかわいいと思ってほしい。だから、かわいいは誰かのためでもある。

かわいい、は、謙虚じゃなくて、わがままなくらいがちょうどいい。
自分のための”かわいい”も、誰かのための”かわいい”も、ぜんぶわたしが手のひらで転がしてやるのだ。

わたしと同じように、誰かからの”かわいい”を求めながらも、誰かからの視線に後ろめたくなってしまう人へ。

自分の”かわいい”を、認めてあげられるようになれたらいいな、という願いを込めて。


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このエッセイを、こちらのコンテストの捧げたいとおもいます。
わたしの愛する「かわいい」を考えるきっかけをいただけたことに、感謝です。




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