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こんにちは老害です ──老害の側から考える老害──

老害への変身

ある朝、なにか気懸かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の老害に変わっているのを発見した。

(伊藤ガビン「変身 -老害編-」より)

こんにちは、老害です。

そこそこ長いこと生きていると、自分の視点がパチンとスイッチを入れたように切り替わる瞬間があります。

例えば僕の場合は、20代後半の頃、バイク事故で亡くなった友人の葬式に出たんですね。その時、なぜかわからないんだけど、視点がパッチーンと「事故で子供を亡くした親」に変わってしまって、異様に悲しかった…。子を持つ親どころかまだ独身だったのに。そして、そこからはもう視点を「故人の友人」に戻すことはできなかった。

またある時には、猫がネコトイレで踏ん張っている時に突如として「ネコトイレ側」の視点にブリブリと切り替わってしまったこともあります。「ごめんな、わしな、もっとキレイにしたいんやけど、あの男(筆者のことです)が、めっちゃ適当に掃除しよんねん」というような視点。トイレも、トイレ掃除人どっちも俺……と思いつつ。

こういう視点のスイッチの入る瞬間は、自分では制御できなくて、突然やってきます。
40代のある日のこと、「老害」に関する誰かのSNSへの投稿を読んだ時に、「老害の側」として意見を受け止めている自分に気づきました。
え、いま? 老害? なんか早くない!? と思う間もなく老害モード。それからもう10年以上、いろいろな老害に関する言説を「老害の側」として必要以上に受け止めてきたというか、老害に対する罵詈雑言に勝手にボコボコに打たれてきたんですね。なんなんだ。老害ワナビーだったのか俺は。たすけて。

ですので、老いの初心者ではあるんだけど、老害としては結構ベテランと言えなくもない太郎。
積年の老害ワナビーとして経験により、言いたいことが溜まってるんです。それを今日は書きまーす。

老害、旬の季節

まず老害が批判される時に、勝手に前提になっていることがいくつもあるなあと思っているんです。
たとえば「老害は老害の自覚がないから老害である」とか。
まあ、そうなのかもなあ、と思いはしますが、そればっかりでもないよなあ、とも思う。

老害って何歳からスか? という問いには答えがなくて、職業や状況によって違うでしょう。政治家なんかだったら60代はヤングくらいの感じあるし。アスリートやクリエイター職なら30代、40代でも老害扱いを受けることがあるでしょう。
ただ一般企業を例にとれば、定年が65歳あたりだとすると、50代の使えないおっさんたちが老害として鬱陶しさを振りまいているであろうことは想像しやすい。
老害としての旬の時期、いきいきと活躍できる老害は50代なのではないでしょうか。脂ののった老害としての50代。全然嬉しくなさすぎる。

で、ですね、僕の周りの50代と話をすると
「自分、老害なんで、気をつけないとー」
なんて発言を結構な割合で聞くんですね。
自覚なのか、謙遜なのか、自覚あるから自分は違うと言いたいがための捻れた発言なのか。
ただこの、自分が老害である、ということを考慮しつつ「気をつけないとー」と言わざる得ないこの感じ!!
「この感じ」がねえ、あるねえ〜。年ととってくると、というか自分の場合男性であるので、おっさんとして常に「この感じ」と寄り添って生きています。

老害は男女ともにありますが、おっさんの場合は、生きてるだけで既得権益まみれじゃないですか。息をするようにハラスメントする存在じゃないですか。ハラスメントのデパートじゃないですか。ハラスメントのショッピングモールじゃないですか。ハラスメント界のダイソーじゃないですか。どんなハラスメントも揃ってる。毎年ハラスメント講習を受け、老眼鏡を上げ下げしながらメモをとっているのに、事件を起こしてしまう生き物、それが俺たちおっさん。
あ、これ、ハラスメント的にギリアウトかも? と立ち止まって考える瞬間が時々ありますが、同じように、あ、これ老害かもな? と思う瞬間があるんです。老害と寄り添って生きてる感じがある。

しがみつく理由

ここまで書いた「自覚ある老害」は、なんというかまだキリッとした老害的行動を慎もうとしているかもしれない。だけどさらに、
「老害なんだけど、若者に迷惑かけてもやめへんぞ!」という50代60代もたくさんいると思うんですよ。

「老害はとっとと去れ!」
「ああはなりたくないねえ、自分だったら後進に道を譲るね」

こういう意見あるじゃないですか。
でも「老害の側」から言わせてもらうと、
「失せたあと何したらいいのよ〜〜〜!!??」
「道を譲ったあと、どう生きればいいのよ〜〜〜!!??」
というタフな問題が、寝たきり老人のように目の前に横たわる。

晩婚化がすすんだでしょう?
厚生労働省の報告では2020年の平均初婚年齢は男性31.0歳、女性29.4歳。
女性の第一子出生時の平均年齢は2021年で30.9歳。
て、ことは、もし子供を授かったりした場合、自分の子供が大学入学あたりで50代に突入します。

こ、このタイミングで「老兵は去れ」は厳しいッスなあ…金がかかるタイミングで去ってくれと言われちゃったわ…..どうしよ。と。
僕が「去れ」と言われたら、長年のSNSで鍛え上げた既読スルースキルをめいっぱい発揮して、気づかないふりをするしかない。俺は、か、金がいるんじゃーと心で絶叫しながら無の表情で華麗に既読スルー。
老害にとっては、ここぞとばかりの既読スルーは、W杯における決定的なスルーパスくらいの価値があるからね。時事ネタ恐縮です。

こうした老害の、老害による、老害的行いに対する容赦ない批判として、
「ちゃんと準備しておきなよ、大人なんだから」
というのもありますよね。
「金がないとか知らないよ、貯蓄しとくでしょ普通」
と。
そうだよなあ厚切りジェイソンを見習ってFIREしておくべきだったよなあ、って、思うカー。いや俺だってしたかったよFIRE。実際には家計がファイヤーって、この駄洒落感、間違いなく老害では。

しかもですよ。最近になって「人生100年時代」とかふざけたことを言うじゃないですか。このショックは、若いとわかんないかもしれないけど、50代とか60代で「人生100年」とか突然言われるともの凄くクルんですよ。
例えるなら、すぐそこに見えていた人生のゴールテープを持った係員2人が、猛ダッシュで遠ざかり始めたというベタなコントなんですよ。ちょっと待って! そんなことされたら死んじゃう! あ、逆か、あと何十年も生きちゃう! 生きちゃうことで逆に死にそう!
って頭グラグラしてきますわ。
そんな心の準備も、金銭的な準備もしてないのよ。

さらにですよ、これで終わりとも限らないでしょう? 大事な時に空気読まずに始まるWindows Updateの如く、90歳くらいになった時に「今から人生120年時代です。はりきってまいりましょう!」って言われる可能性も否めない。マイクロソフトめ。そんなことな可能性を考慮して「準備する」ってムリじゃない?

音楽家のミヤザキタカシさんが、この連載(連載なのこれ?)について、ツイッターで

と、書いてくれた。
そんなに深いことは考えずに書きなぐっているだけですが、しかし15で不良と呼ばれたよ(by藤井フミヤ=今年還暦)からの、50で老害と呼ばれ、急に「人生100年」て、人生の半分老害として生きるということでしょ。
「人生の1/3は寝ている時間です、寝具と枕にお金をかけましょう」みたいな売り文句と同様のインパクトがありますよね。
「人生の半分は老害だ。老害としての幸せを実現するのがこちらの商品です」
しょくん、ビジネスチャンスのとうらいじゃ。

なんつーかねえ、こういうのはー、こういう老いという誰にでも訪れることには、「出来る人」を標準にしたらダメだと思うんです。若い頃から計画的に出来る人をモデルにしちゃダメですよね。「老いの初心者」の年齢になってわかるのは、基本的に人間は全部ダメ人間、ってことなんですよ。だから世界の幸せのラインを上げるには、システムとしてダメ人間をどうにかする必要がある。「準備しておきなよ」とか言われても苦笑するしかない。

窓際族になれなくて

もしあなたが「老害」を心底忌み嫌うなら、「老害」から身を守るべくシステムの変更が必要なんじゃないかしら?
でも今の潮流は真逆に進んでいるように思う。

終身雇用のシステムが生きていた頃に「窓際族」という言葉があった。

窓際族(まどぎわぞく)とは、日本の職場において閑職に追いやられた、余剰の社員・職員を指す言葉。

Wikipedia より

要するに、使えないおじさんを閑職に追いやる制度? 嫌がらせ? みたいなものなんだけど、今となっては憧れちゃうね。というか、うまいシステムだねえと思わないでもない。
終身雇用、すごい。
使えない上司、だが、年齢的には金が必要、という人を社内の生態系の中でうまいこと処理しようとして産まれた仕組みなんだろうか。
現在は、こういう仕組み自体が嫌われていますよね。
いまいまバリバリ働いている若者に金は支払われるべきで、仕事しないマンは薄給/クビでいいだろう、と。
働かざるもの食うべからずて。

ここらへんの仕組みと、老害の問題は塊になっている。
コレクトネスと、自己責任論と、老害は地続きだなあと。
これに関して、僕が若いみなさんに対して思うのは、このシステムは未来の自分の首を締めかねないので、貯蓄とか投資とか、準備しようね!! しっかり!! ということです。

まとめます。
老害の問題は、原因を老害その人に求められがちだけど、もし本当に老害による迷惑を蒙りたくないのなら、それはシステム変えなければ難しいと思う。そしてそのシステムは、老害うぜえなと思っている人たちの、いまの心情と合致しないかもしれないね。ある種の社会保障システムの話になるので。老害を老害のまま助けることになるから?

もうひとつ。書き忘れてた! これも老化か。
老害に対して、いつまで昭和気分なんだよ、アップデートしろよ! という批判があるじゃないですか。でも「老い」はアップデートそのものを難しくする。

これまで尊敬していた作家やアーティストなどが、突如時代遅れのどうしようもない人間に見える瞬間がある。アップデートエラー。
でも僕自身もいつかアップデートエラーで、いまでも泥だらけの晩節をさらに汚すことに確信がある。古いOSがサポート対象外になり、セキュリティに対して脆弱になるように、昭和のOSはもうサポート対象外なんだよ。

そう考えると「古い価値観の人が古い価値観のまま暮らせる社会」の実現というのも面白いテーマだと思うのです。新しい価値観の人たちの迷惑にならず、古い価値観で暮らすことなんて不可能なのでは? 世代ごとの価値観をどう混じり合わせてゆくのか。単純なアップデート戦略じゃない道を考えてもよいのかもしれないよね。

というわけで、長くなりましたが、
老害を批判する人は、自分が老害になった時のこととセットで考えることが求められるのではないかな、と老婆心ながら思いました。うっ、いつのまに老婆に。

シリーズ「はじめての老い」は、ここにまとまってます


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