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やっとワースト三品の食事に出会ったのは、幸せな食生活の証

腹が立ち、終いには、笑ってしまうほどの不味さだった。先日、二、三年前から気になっていたCafe定食で昼食を取った。辛さも多少の甘味もないナポリタンがしょっぱ過ぎて、水を飲み飲み食べきった。人生80にして、ワースト三品の食事に出会ったのだから、これまでの食生活が、いかに恵まれていたかと言うことでもある。物心がついた1945年以降、戦後の厳しい時代を経て、これまで、ほぼ100%満足してきた。その環境と単に食いしん坊に過ぎないかもしれないが、美味しいものを追いかけるに長けた執念が続いた事に感謝しなくてはならない。仮に香川さん流に、生きているだけで素晴らしいと言うのであれば、基本的な部分で、もう既に、生き甲斐をひとつ貰っていたようなものだ。それにしても、メニューが極端に少なかった。無駄を省き、効率を高めるのが時代の要請なのは、わかるが、それなら、自信作でなくてはならない。確信していた。ナポリタン、サバの味噌煮定食、アジフライ定食。いつ、どこで、どれを食べても美味しかったので、安心して注文出来た。その通念が覆されたのは、残念でもあった。

これで、ニョロッとした、雑味の残る手打ちそば、何度も醤油をつけ足して、味を整えた酢豚、しょっぱ過ぎるナポリタンのワースト3がすべて登場したが、予想外のこともあった。何と、そのそばが美味しくて、何度も通っていると言う人に出会ったのである。人は、様々の好みがあるし、自分が何様でもないのだから、自信過剰の断定をせずに、ファジーな表現をしていた方が無難なのかとも思う。妻には、ナポリタンと酢豚定食を食べて、他者の視点から評価して貰い、再チャレンジによる見落としや見直しの発見もしたかったが、相手にされなかったのは当たり前。

最近は、食べ物に限らず、ハッキリ、好悪を言わないようになった。一貫した意見を保てない朝令暮改みたいなことがあり、恥ずかしい想いをするからである。長きに渡って生きていれば、印象すら変わってくる場合や、成長したり、感覚が鈍ることもあり、ものの見方は一様ではない。当方は、斎藤清の木版画を扱っているギャラリーであるが、以前、評価していた作品が、それ程でなくなったり、気にも留めなかった作品の良さが気になってしょうがない場合がある。これまで培ってきた自信も揺らいでくるのだが、これでいいのかもしれない。

著名人が出演する報道、ドラマ、バラエティー等のTV番組でも好みによって、見たり、見なかったりするが、やはり、固定観念にとらわれないように気をつけている。特に、第一印象で人を判断しがちであるが、裏技、趣味、隠れたエピソード等に触れ、一気に印象が覆る場合がある。そんな時は、自分が、如何に表面的にしか見ていなかったかがわかり、情けない気持ちになる。従って、近頃は、自分が、評価していない人等にも着目している。何かが、評価されて、取り上げられ、脚光を浴びているのだから、他者の価値観にも気付きたい。

今までの概念と対角線上にある、気付き・反省による翻意や再評価も必然なのだが、ここへ来て新たな視点もあたまをもたげてくる。こんな事に囚われていていいのであろうか?他人から見れば、ボォーッと暮らしているように見えるかもしれないが、人生終盤の八分の一も、忙しさと暢気さが同居しており、訳がわからないうちに過ぎて行ってしまうのだろう。しかし、大半の人間がそんな生き方をしているのかもしれない。人生又楽しからずや。













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