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01(ゼロイチ)~東日本大震災を経て~#3

■噂

家族の居る親戚の家に帰った後は色々なことがあった。

一緒に避難していた近所のおばあちゃんの足が浮腫み始め、歩けなくなった。在宅避難のため、配給も来ない。家があったとしても、食料があるわけでもなく、配給を避難所に貰いに行った、近所の方が、「家があるやつが配給を貰いに来るなと言われた」と言っていた。

家があるだけ、恵まれている。例え食料が無くても我慢すれば良いと思ったが、足が浮腫んでしまったおばあちゃんは違う。私が子どものころ、良く面倒を見てくれた。母が居ないとき、ご飯を作ってくれた。助けたいと思った。

少しでも高カロリーの物を食べて貰って、栄養を付けて貰いたいと思った。しかし、市街地はもう無い。食べ物を買う店が無いのだ。財布にお金があっても使う場所が無ければただの紙クズでしかない。そこで、自宅に父が趣味で始めると言って購入したロードレース用の自転車があることを思い出し、それに乗って遠野市まで買い物に行くことにした。

片道50km。当時、運動は全くしていなかった。更に食べ物も満足に食べてはいない。今考えると無謀な挑戦だった…更にロードレース用の自転車を、普通の自転車感覚で乗れると勘違いしていた私は、ギアチェンジに戸惑い、自転車のチェーンにズボンの裾が巻き込まれ、中々前に進めず、サドルが細いため、お尻が痛くなったりという状況になりながら、朝7時に自宅を出発し遠野市に到着したのは13時ころだった。コンビニがあったので中に入ると水や食料はほぼ無くなっていた。ただウーロン茶とプリン、ビスケットなどが少量残っていたので、購入し、自転車に括り付け帰路についた。ボロボロになって親戚の家についたのが17時近く。避難していた近所の人たちにもウーロン茶などを配って、お世話になったおばあちゃんにプリンを渡そうとした。

しかし、おばあちゃんは「これから若い人が頑張らないといけないんだから、私は良いから若い人たちで食べなさい」と言った。命に若いも年を取ったも関係ないでしょと伝えたが、決して受け取ることは無かった。

その後は、瓦礫の撤去を手伝ったり、給水車に水を貰いに行ったりしていた。そういった近所の人たちに会う度に情報交換が行われていた。TVを見ることも出来ず、新聞も無い、ネットも使えない。唯一の情報源のラジオも各市町村の被害の状況が流れて来るだけで、身近な情報は近所の人たちから聞く「噂話」しかなかった。

噂話の内容には、ろくなものが無かった。「配給を貰いに行ったら、避難所の人たちから怒声が上がった」「ボランティアと言っている人に女性がわいせつな行為をされた」「被害にあった家に泥棒が入って捕まったが、県外の人らしい」「県外ナンバーのトラックが深夜、街中を走っている。あれは盗みに入っているはずだ。見回りしないと」などなど。

特に多かったのが被災者ではない、県外から来た人たち、ボランティアに何かをされたという「噂」が多かった。当時の私は、なんでこんな目にあって、更に追い詰められるようなことをされないといけないんだと怒りに震えていた。

今思えば、震災関係なく普段の生活でも良いことしたという噂はあまり広がらないが、悪いことをしたという噂の広がるのが早い。ましてや命が掛かっていて、情報が手に入らない状況の場合、生きるためには「噂」を信じるしかなかった。

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