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01(ゼロイチ)~東日本大震災を経て~#8

■善意

陸前高田市は、避難場所が津波の被害に合い、人口の約7%の市民が亡くなった。そのことは当時、メディアや市民からも非難の声があがり、その対象は市役所職員へも向けられていた。

一方、私は災害ボランティアセンターでの業務として、ボランティアを送り出した後、ニーズ調査(瓦礫の撤去などの依頼受付)のため避難所や仮設住宅、被災した地域などを回っていた。

ある時、ふと思った。非難が集中している市役所には誰も味方がいない。市役所の職員も家族や大切な人を失った「市民」の一人、そんな状況にありながらも、まちの復興に尽力している。せめて私だけでも味方になる一市民にならないといけないのではないか。

仮設の市役所庁舎を訪れ、ニーズ調査を行ってみることにした。そこでミサンガの少女のこともあり、子どもたちの状況が気になったので教育委員会へ行き話を聞いた。

教育委員会は、東日本大震災の当日に出張に行っていた2名の職員以外は全員お亡くなりになっていた。また市内の学校の先生たちも家族や大切な方を失いながらも、遅れてしまった学校行事の準備や子どもたちの心のケア、被災した子どもたちのために筆記用具を集めている方もいた。

そんな最中、教育委員会には「子どもの支援」の申し入れが殺到。2名の職員を中心に奮闘していた教育委員会で、現状は中学校の対応がやっと、小学校までは手が回らないと仰った。それを聞いてとっさに「じゃあ小学生以下は私がやります」と言っていた。災害ボランティアセンターでは子どもの支援を行えないのに…。理由は心のケアに関することなので、専門家が必要だし、ボランティアに対して子どもを預けても大丈夫という保険、安全性を保護者に担保できないからだ。現状ではできない。しかし、子どもたちのために何かしたかった。

「善意」ではなく、本当は、無力な自分を救いたかったのかもしれない。

「子どもの支援」。弱者の救済として分かりやすく、良いこと。しかし中には、「自分の満足感のために支援している人」が当時いたのも事実。例えばボランティアが殺到し、依頼の案内が遅れていると「支援しに来てやってるのに待たせるってどういうことだ」「子どものためを思って支援してやってるのに」というような言葉を放つ方も多かった。何度も聞き受けていると、同じ人間として見られていないようで、悲しい気持ちになったのを覚えている。

「善意」は時に重荷になることがある。

更に教育委員会の職員からこんな話を聞いた。震災後に行われた入学式の新入生挨拶、子どもが話してくれたことは「学校のグラウンドに仮設住宅が出来たので、僕たちは静かに生活します」といった内容だったこと。震災のことを話したいけど、両親に気をつかって我慢している子どももいること。

子どもたちが気兼ねなく震災当時の話ができたら、自分の中で消化できる機会になるかもしれない。そして駆け回れる環境もつくるにはどうしたらいいか。そのために、当時ボランティアに来ていた大学やNPOにご協力いただき、定期的に仮設の集会所や公民館を活用して大学生が子どもの宿題を教えたり、一緒に遊んだりする事業を開始した。

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そのころ陸前高田市には多くの有名大学がボランティアに訪れていた。その大学生から勉強を教えてもらえることは、保護者にとっても嬉しいことではないか、また大学は公的な機関という安心感がある。そして何より、子どもたちにとって、年の近いお兄さんお姉さんになら話せることがあるのではないかと思った。ただ、大学がこういった取り組みを個人に対して協力することは難しく、任意団体、あるいはNPO法人である必要があった。そこで、災害ボランティアセンタースタッフに協力をお願いし、任意団体をつくり事業を始めることになった。

震災の話を大学生に話して聞かせる子、楽しそうに駆け回る子、一生懸命勉強する子、子どもたちの生き生きとした表情、そして、子どもたちのためにと色々な企画を考え実施する大学生。今思い返しても、協力していただいた方々には、感謝しかない。

この事業では副産物もあった。陸前高田市では震災前、持ち家の方も多かった。しかし仮設住宅に入り、自室はなく、保護者も自分の時間や場所が持てずにいた。「子どもを預かってもらえて自分の時間が持てるようになったんです」と話してくれた保護者もいて、人のために何かが出来たようで嬉しかったのを覚えている。

また、震災後にイベントが多数行われ、「イベント疲れ」という言葉がメディアやSNSなどで発信されていたことがあったが、実は全く行われていない地域もあった。それを聞き、子どもたちも地域の人たちにも楽しんでもらえるようなイベントをしたいと思い、震災直後に出会った、当時関東でイベントを手掛けていたボランティアの方に協力してもらい、イベントを開催した。そのボランティアの方は10年経った今も一緒に活動を続ける仲間になった。

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子どもたちが部活動で使用するユニフォームや備品がないと聞いたときは、SNSで寄付を集め提供にご協力いただいたこともあった。

本当に多くの人たちの「善意」に支えられた。

しかし「善意」は、自己満足だったり、一歩間違うと届かないことも、重荷になることもある。

「善意」とは「相手を労わること、寄り添うこと」ができた時、受け取られる、受け止められると感じた。

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