自分だけの「おもしろい」を大事に抱きしめて
人には好みの「おもしろい」があって、みんなが「おもしろい」というものを自分もそう思えるとは限らない。
そんなことは当たり前なんだけど、意外と忘れられがちだ。
たとえば、僕が個人的に好きな「おもしろい」は意外性のある比喩だったり、独特な切り返しだったり、ワードセンスが光る瞬間だ。
一方で、誰もやったことがない企画とか、リアクションの派手さとか、そういう類いの「おもしろい」はあまり好みではない。
そういう意味で、たとえばどれほど企画力があって発想豊かで、リアクションの大きい大人気ユーチューバーが「おもしろい」ともてはやされていても、その人の発言に潜むワードセンスが好みでなければ、「おもしろい」とは思えない。逆に、いつも似たような企画ばかりで代わり映えせずとも、ひとつひとつ選ぶ言葉が独特でセンス溢れるものであれば、無限に観て、聴いていられる。何をするかより誰とやるかに人並み以上に重きを置きたくなるのもそのせい。
正直、話の展開やオチのようなものも別にいらないと思ってる。
どんなよくできた話でも、その枝葉ともよべる装飾の言葉の良し悪しで「おもしろい」かどうかを判断してしまうことすらある。
おもしろい画像や写真にもそんなに興味はないけど、そこに添えられた一言には興味があったりする。映像のインパクトよりも、解説の冴えの方が気を引くのだ。
それでいうと、テレビやYouTubeみたいな音声と映像の複合エンタメよりも、ブログみたいな文字媒体のみ、もしくはラジオみたいな音声媒体のみのエンタメの方が好みだ。より"言葉"に重きが置かれるから、好みの「おもしろい」だけ濃縮したものを享受できる。
重ねていうと、人にはそれぞれ好みの「おもしろい」がある。
別にどっちがより「おもしろい」かとか、そんな優劣をつけたいわけではない。いや、どんなにがんばっても優劣なんかつきっこない。
それなのに、「おもしろい」と思ったコンテンツを人に勧めるのはなぜなんだろう。自分は「より上」の「おもしろい」を知ってる、と相手に伝える行為になんの意味があるのだろうか。あくまで自分にとって「より上」だっていう話でしかないのに。相手にとってはもっと「おもしろい」ものがあるのに。
たぶんそれは、同じ価値基準を持っていてほしいっていう願望の現れなんだろう。
まあ、好きなもので共感されたいとか、そういうシンプルな話でもあるんだけど、それも掘り下げると、仲の良い、もっと仲良くなりたいこの人に同じ「おもしろい」の尺度を持っていてほしい、という一種のわがままだ。人間の傲慢さはこんなところでも火を吹く。気の合う人とこんな価値観も合う、という安心がいつだってほしい生き物なんだ人間は。
しかしここで残念なことを告げてしまうと、どんなに気があって、その他の価値観や感性に近いものがあっても、「おもしろい」の好みまで一致するとは限らないのだ。不思議なことに。
これ別に「おもしろい」に限った話でもないし、音楽の好みとかでもそうなんだけど、こと「おもしろい」においてはほんとに忘れられてしまいがち。気をつけたいという自戒も込めて。「おもしろい」のはおまえだけかもしれないぞ。
そんな悲しい事実を今日も丁寧に受け入れて、自分だけの「おもしろい」を大事に抱きしめて生きていくしかないよ。僕もあなたも。
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夏夜のマジック/indigo la End
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