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他人の関係

母親というのはつまり、一人のちっぽけで不完全な女のことなのだということに私が気が付いたのは十五の時だった。
同時に家族なんて血が繋がっているだけの他人なのだから、決して分かり合えないし、分かり合えなくて良いのだと早々に見切りをつけた私は高校卒業を機に家を出た。
家族を愛せなかったのは不運だったかもしれないが、ただそれだけのことだ。家出同然で家を出た日の清々しさを私は今でも鮮明に覚えている。
自由だと思った。
もう誰も、二度と私を踏み躙ることはできない。
そう思った。
「……甘かったなぁ」
結婚とは、赤の他人と住居を共にして家族になる契約だと私は考えている。
生まれる家や親兄弟を自分で選ぶことは出来ないけれど、結婚相手なら選ぶことが出来る。
無関心な父親、過干渉でヒステリックな母親。デフォルトの家族に恵まれなかった私は自分が生まれ育ったような機能不全家族を再生産してしまわないようにと細心の注意払って結婚相手を選んだ。
選んだつもりだった。
「私って男を見る目がないのかしら」
じゃがいもの皮をピーラーで剥きながら私は無感情で平坦な声で独りごちる。
悠介はちっとも好みのタイプでは無かった。
しかし真面目で優しくて安定した収入がある悠介は面白味はないけれど結婚向きの男性のように見えたのだ。
今になって思えば浅はかだと思う。
交際中はいつも穏やかで何をするにも私の意見を聞いてくれた悠介は入籍を境に豹変した。
ちょっとしたことですぐに不機嫌になり、癇癪を起こして私のやることなすこと全てを否定して感情的に責め立てる悠介は、まるで知らない人のようだった。
三年も付き合ったのに、人の性根というのは分からないものだ。
三年間、悠介は一度も私を怒鳴ったことがなかった。意見の相違があって喧嘩になっても決して途中で放り出さず、辛抱強く向き合って話し合おうとする誠実さと忍耐力に惹かれたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
結婚して一年、悠介に怒鳴り散らされ人格否定されるのは最早私の生活の一部であり日常だ。
怒鳴られるのが嫌で実家を出たはずなのに皮肉なものである。でも物を投げたり手をあげたりしないだけ、悠介はまだマシだった。
「女の癖に家事もまともにできないの?仕事ってパートでしょ。フルタイムでもないし子供もいないのに言い訳しないで。家事なんて誰にでも出来るんだからやって当たり前だよ。早織は怠けてるだけだよ。高卒で大した仕事も出来ないんだからちゃんとやって」
こんなこと言う人じゃなかったのに。
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、下茹でした糸こんにゃく、牛肉の薄切りを炒めずに出汁と砂糖、醤油、酒、みりんで煮込みながら私は考える。
悠介は私がすっかり油断して自分の所有物になるのを待っていたのかもしれない。
三年も、高圧的で尊大な本性を隠していたのだとしたら、それはそれで大した忍耐力だと思う。
肉じゃがは早めに作り始めて一度自然に冷まし、食べる直前に温め直すと味がよくしみるのだと教えてくれたのは母方の祖母だった。
夫婦も、同じなのだろうか。
冷めていく段階で味がしみて、深みが出ていくのだろうか。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
「メシ何?」
「肉じゃがと豆腐とワカメのお味噌汁」
「二品?手抜きだね」
「ごめんなさい。最近どれもこれも値上がりしてるから」
悠介の眉が吊り上がったのを見て私はしまったと思った。
「俺の稼ぎが悪いって言いたいの?」
「そんなつもりなかったんだけど、ごめんなさい」
悠介はこれみよがしに首を回して疲労の色を露わにし、深々とため息を吐いた。
今日は随分とご機嫌斜めのようだ。きっと仕事で嫌なことがあったのだろう。
「早織は良いよね。主婦なんて養われて良い気なもんじゃん。俺は毎日くったくたなのにさ」
「離婚したいの」
余所行きの笑顔を貼り付けて、なるべく悠介の神経を逆撫でしないように「いつもお仕事頑張ってくれてありがとう」と言うはずだった私の口からは自分でも全く思いがけない言葉が飛び出した。多分悠介よりも私自身が一番驚いたと思う。
「……は?何それ」
しかし口に出してみるとそれは、悪くない思いつきのように思えた。
「離婚して欲しいの」
今度は自分の意思ではっきりと、明瞭な発音でそう言うと、悠介は手に持ったままだった仕事用のブリーフケースを玄関に置き「俺から逃げられると思ってんの?帰る家も、なんの取り柄もない癖に」と余裕の笑みを浮かべて私の決断をせせら笑った。
「肉じゃがが冷めちゃうから、早く手を洗って来て」
かつて大好きだった人の顔から目を逸らさずに私は言った。
「貴方こそ、私が逃げられないと思ってるのね。私と貴方は、いつでも他人に戻れるのに」
ダイニングテーブルの上には悠介の帰宅に合わせて温め直した肉じゃがとお味噌汁が湯気を立てている。

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