いま、ここで役に立たないのなら、何のために未来に残すのか
■未来に残すことが目的?
お寺を守る住職との会話の中で、しばしばこんな言説をよく耳にする。
「わたしの使命は、このお寺を未来に残すこと」
どんな文脈でこんな話が出てくるのかといえば、“寺離れ・仏教離れの時代”にあって、“厳しい寺院経営に直面”し、“その難局を乗り越えていこう”という認識の中で、市場のトレンドに合わせたお墓や葬儀、人集めに取り組もうというもの。
ツッコミどころはあるもの、この文脈そのものを判じるのが、今回の趣旨ではない。
ただ、もっと本質的な部分からアプローチできないだろうか。
厳しい寺院経営の根っこは、お寺が現代に生きる人々の役に立てていないことではないだろうか?
お寺の未来が目的なのではなく、人々の役に立てることが目的でなくては、その本質を見誤ってはしまわないか。
■貢献度以上に奉仕を受けているのではないか
「いやまて。役には立っているが、適切に評価されていないだけだ」
そうはっきりと主張できる宗教者は、頼もしいが、むしろその貢献度以上に、奉仕を受けているケースも少なくないのではないか。
いま、ここで――
人々の支えになることができないお寺を、未来に残す意義とはなんだろう。
文化的遺産?
観光資源?
急激な都市開発を防ぐ緩衝地帯?
街のアーカイブ機能?
どれも必要かもしれないが、どれもお寺の本来的意義ではないはずだ。
■試練の年末年始
コロナ禍で迎える初めての年末年始。
感染拡大が懸念される寒冷乾燥の季節。
コロナ感染や経済の停滞もさることながら、10月に自らの命を絶った自死者は前年同月比で約40%増加。女性に至っては、約83%も増加する「緊急事態」を迎えている。
いま、ここで、人々の救いとなれるのか。
この苦しみのときに役立てないのだとしたら、果たして未来残す意味はあるのか。
Zoomやyoutube、LINEや電話を使った非接触のコミュニケーション、スマホアプリ「COCOA」を使った接触管理、一同に会する行事を分散し、高頻度、短時間で行うことでの身体性ある宗教行事の実施。考え抜けば、手段は様々にあるはず。情報に乏しかった3月、4月とは確実に状況が異なる。
お寺を未来に残すことを考えるならば、
いま、ここで、人々の役に立てるお寺であることを希求しよう。
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