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救い #あなたへの手紙コンテスト

消えかけていた貴方が、脳裏で這い回るようになったのはいつからだろう。その白目に走る細かな血管や、爪の際に滲む血液の赤さまで、鮮やかに視えるようになったのはいつだったろう。

きっとそれは、私が「書く」ようになった最近のことだろうと思う。

ーーー

初めて貴方を見かけたのは、大学一年目の頃。私はまだ18で、何も解っていなかった。自分が女であることすらも、まだ。

女性教授の白い指先から音もなく手渡された数枚の用紙には、英字がずらりと並んでいた。複雑な暗号のようで単順な模様のような羅列の中に、貴方は居た。
辞書を片手に一文ずつほぐしていくと、その向こうに徐々に貴方の姿が見えてきた。

告白すると、当時私は貴方に何も感じなかった。
私は英文の隙間に見え隠れする貴方の動きや表情を捉えることに必死だったし、なにより私達は違い過ぎた。バイトや恋愛に明け暮れる奔放な学生は、壁紙を剥がして這いずり回る狂乱した貴方に自分を重ねることが出来なかったのである。
破滅していく貴方を、ただ斜め後ろから傍観していた。

ーーー

黄色い壁紙(きいろいかべがみ)
原題:"The Yellow Wall-paper. A Story"は、1892年、アメリカの女性作家シャーロット・パーキンス・ギルマンによって発表された短編小説である。
掲載されることになっていた当時の一流文芸誌の編集長より、「とうてい容認できない」と断られ、別の文芸誌に載るや反響が巻き起こり、「こんな小説は書かれるべきではなかった」と批判されたという。

問題作だったのだ。
ギルマン本人を投影させたこの作品は。

あらすじはこうだ。
産後鬱になった妻に安静療法を施すため、空気の綺麗な田舎の邸宅を借りた夫。医師である彼は、二階の鉄格子のはめられた子供部屋に彼女を寝かせ、働くことも書くことも禁じる。君のすべきことはよく寝て、よく呼吸をすること。そうすればきっと良くなるよ、「かわいいちっちゃなおばかさん」。
自由を奪われた彼女は、悪趣味な黄色い壁紙の模様を読み解くようになる。そして、壁紙の向こうに這っている女がいることに気づく。まるで鉄格子のような模様のせいでこちらに出て来られないようだ。向こう側から壁を揺らす女と協力して壁紙を大きく剥ぎ取った妻は、ぐるぐると部屋中を這い回っている所を、帰宅後の夫に発見される。
「とうとう私、出てきたの。壁紙はほとんど剥ぎ取ったわ。だからもう私を中に戻すことなんてできないのよ!」
気絶し倒れた夫の上を乗り越え這いずり回る妻の姿を描きながらこの物語は終わる。
 


「この時代、女性が書き物をするなど許されませんでした」

教授のひんやりと冷たい声を聞きながら、日記形式の文体に目を落とす。
急にぶつりと切り落とされる段落。
「来た!」彼女はペンを置く。階段を上がってくる夫の足音。「早くどこかに隠さなくては!」机の引出しだろうか、とにかく奥へ奥へと日記を押し込む彼女の鼓動。


18の頃の私を振り返る。別人のようだ。
体裁のためにフェミニズムに沿って小論文を書きながら、「時代が悪かったのね、この人は精神的に弱かったのかも」などと頭の隅で転がしていたあの学生は、別人のようだ。
なぜなら今の私には、結婚し子供を産み書くことに執着している37の私には、解るからだ。彼女にのしかかった圧力は、精神を握りつぶす程に大きいものだったと。

ーーー

陽のあたる場所で文章を書いたことがない。いつも逃げながら書いている。隠れながら書いている。自由に書いたことがない。喋るように歌うように書いたことがない。堂々と書いたことがない。
近づいてくる足音。ぶつり、と切れる文章。闇に葬られるスマホ。
これが私の現実だ。

想像や日常を露わにする行為は野蛮だろうか。「書く」ことは悪だろうか。「救い」だと思う私は間違っているのだろうか。

時代じゃない。性別じゃない。
抑圧はあらゆる形をして、あらゆる場所に蔓延っている。
そう、私の小さな家の中にも。

ーーー

今、私は貴方の隣に並んで、鉄格子のついた子供部屋の床にべったりと座り込んでいる。
めくれ上がった爪で、黄色い壁紙を引っ掻いている。出してくれと壁を揺らすその人を助けるために。
一心に壁紙を引っ掻く貴方の横顔に、「あの時は分かっていなかったの。ごめんなさい」と語りかけたら、初めて視線が交わる気がした。


「こんな小説は書かれるべきではなかった。読んだ者はみな、まちがいなく正気を失ってしまう」と批判されたギルマンは後にこう語っている。

「わたしは人を狂わせるためにこの書を書いたのではない。狂気に追いやられそうな人々を救うために書いたのだ」 


ギルマンが自身を重ねた貴方に、暗がりの中の私が重なった。私を繋ぎ止めるような、仄かに炙り出すような救いが生まれるのを、確かに見た。

よし、これからか。

ペンを握り直して、私はこの手紙を終えることにする。




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水野うたさんの企画に応募させて頂きました。

言えずにいたこと、隠してきたことにも向き合えたのは、うたさんから滲み出、広がる包容力のお陰だと思います。うたさんがそこに居たから書けた、そんな方が沢山いると思います。
素敵な企画をありがとうございました。

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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!