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Once in a blue moon

「今月は二度、満月になるんですよー。すごいですよね。ブルームーンって言うそうです。」

黄色から赤。
ヘッドライトに浮かび上がった白い線に滑り込むようにして、水色の車体は停まった。
ラジオの声に流されるように、ハンドルを握っていた指は静かに湾曲を滑り落ちた。
群青色の空は、左右に走る何本もの黒い電線に切り刻まれている。

「Once in a blue moon.....」

トーンの高い、けれど張りのない、細くよれた声が頭の中に響いた。

           丨

もう十数年も前になる。

私はマレーシアのマラッカに居た。
Tシャツ、カーゴパンツ、キャップ、サンダル、バックパック。
もうすぐ昼。
朝ごはんはまだ。
長旅の途中は、毎日が節約。

「お嬢ちゃん。」

すぐ背後から呼び止められた。振り返ろうとする私のぎこちなさを待たずして、人影が脇からひょっこり出てきた。
白髪を短く切りそろえた、小柄な老婦が私の顔を覗き込んでいた。
私は息を呑んだ。
目一杯光を集める澄んだ瞳は、その周りの垂れた瞼や白髪とあまりに不揃いだったからだ。
しかし、そんな私の戸惑いの瞳に向かって、彼女はにこりと微笑んだ。

「ご飯はもう食べたのかい、お嬢ちゃん。」


どこかに行く用事でもあるの、そう彼女は尋ねた。
ついて来なさい、そう彼女は言った。
アンティー・ヤップと呼んで、そう彼女は笑った。

不思議なのは、この澄んだ瞳に問いかけられると、どうしてもノーが出てこないことだった。

小さな彼女がスタスタと歩く後ろ姿。
腰部に見えないロープを巻かれ、その先端を引かれるかのように、私はひたすら彼女の後ろをついていくしかなかった。私は一体、何処へ向かっているのだろう。

途中、商店街を通り越した。
町中の人々は、次々と笑顔で彼女に声をかける。
彼女は挨拶をしたり返事をしたり会話をしたりした。人々の声色や表情は明るくて、それが私を安堵させた。

ロープはいつの間にかほどけ落ちていたようだ。
小柄な彼女が生み出すスピードと歩幅を、私は私の意志で追っていた。知らず知らずのうちに。

アンティー・ヤップ…。
ヤップおばさん、ってことか…。

揺れる白髪のリズムに合わせて、とにかく歩いた。

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真っ白なアパートだった。
規模はさほど大きくなく新しくもないが、手入れの行き届いた爽やかなアパートだった。

私は言われるがまま、階段を登った。
道路に面した大きな窓、清潔なリビング。ダイニングキッチンの奥には、大量の…スパイスだろうか、小瓶がずらりと並べられている。

「さ、座ってて、昼ご飯を作るから。」

そう言って、さっきまで持っていた手提げ袋からガサガサと食材を取り出した。

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彼女はそこに一人暮らしだった。
息子と娘が一人ずつ。彼らはもう立派な大人で、この町を出て、働いている。

彼女が皺の多い手ではらりとページをめくると、ナース姿の若かりし彼女が笑顔で佇んでいた。
その瞳には、今と変わらぬ光が詰まっていた。
これは私、これは息子、これは娘。その三人がこのアルバムの主な登場人物のようだった。

「結婚は、しなかったよ。」

すごく勝ち気で、夫なんか要らないと思っていたからね、子供は欲しかったから養子をもらったんだよ。

町なかの雑踏で、腹を空かせた根無し草のような女を拾って連れ帰る彼女に、ナース姿の若かりし彼女が重なった。

「ついて来なさい」「そこに座って」と有無を言わせずさっさと調理を始める彼女に、シングルマザーの道を選んだ彼女が重なった。
赤の他人同士三人を一つの家族にまとめ上げた彼女が見えた。

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私は、言われるがままに安宿を出て、彼女の家に移ることになった。
安宿の陳腐な木造棚に陳腐な南京錠を掛けて守っていた私の全財産は僅かなもので、全てすとんとバックパックに収まった。私は初日同様の軽い出で立ちで、アンティー・ヤップのアパート前に現れた。

長旅の日程を確認すると、マレーシアに居られるのはあと三日だった。

三日間、私達は共に過ごした。

アンティー・ヤップが床拭きをすれば私はシーツを洗って糊付けをした。
アンティー・ヤップが料理を始めれば、私もキッチンに並んで見よう見まねで手伝った。
私が寝る前に日記をつければ、アンティー・ヤップはお祈りを始めた。
そうだ、日記の時間だけは、彼女は私に合わせてくれていた。
長々と書き続けていた時、お祈りをする彼女の小さなあくびに気づき、「もう書き終わったよ」と日記帳を閉じた。
握っていた数珠をカチャリとテーブルに置くと、彼女は黙って私を見つめた。

ねぇ。
お便りをちょうだいね。Once in a blue moon.
たまに、っていう意味だよ。
たまに、本当にたまに、でいいから。

私は日記帳の裏表紙を開いた。
彼女は、鉛筆を手に取った。
書いては消し、消しては書いた住所と名前が残った。

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気づいたら別れを告げる朝だった。

バスの出発時刻から逆算して早めに起きた私が部屋から出ると、アンティー・ヤップは既にキッチンの中にいた。
私はささっと身支度をして、隣に並んだ。

少量ずつの野菜やきのこや鶏肉など多種多様な食材は下ごしらえされ、ボウルやザルに入れられて、ところ狭しと並べられていた。

「話したでしょう、この料理のこと。」

私は前日に彼女が教えてくれたお粥のことを思い出した。彼女は瞳にいっぱい光をためて話したのだった。
そうだ、あれをお嬢ちゃんに作ってあげよう、とっても美味しいから。
そう言って、いたずらっ子のように笑うのだった。

別れの朝、私達はお粥を食べた。
具沢山の、色とりどりの、お粥だった。
食卓は、静かだった。

家を出る前に、アンティー・ヤップは写真を撮りたいと言った。そして、すっと部屋へ消えた。
再び目の前に現れた彼女は、目の覚めるようなオレンジ色のブラウスを着ていた。

いつも白色ばかりを着ていた彼女がまとったオレンジ色は、とても彼女らしかった。
正義感と勝ち気と愛情深さをまとっているようだった。
彼女そのものだった。

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バックパックもサンダルもとうに脱ぎ捨てた私は、東京で働いていた。
湿度を含んだ南国の風、あの清潔な白いアパート。
あそこにいたのは、本当に私だろうか。
無機質な乗り物でただただ運ばれる毎日。黙々と無表情で乗ったり降りたりする毎日。

疲れて部屋の鍵を開け、バッグをどさっとテーブルに置き、ソファに身体を預ける。
無造作にチャンネルを回す。あ、電気つけるの忘れてる。
暗い部屋の中にニュースキャスターの綺麗な顔立ちが浮かび上がった。

「今夜は、とっても珍しいブルームーンのはずでしたが……あいにくの雨により……」

あの朝も雨が降っていた。
断っても断っても、バス停まで付いて行く、と言って聞かなかった。
よれた折りたたみ傘を差して、並んで歩いた。
バスを待ちながら雨を眺めて…あぁそうだ…呟いたんだ、「日本の折りたたみ傘は丈夫だろうねぇ」……。

数日後、私は丈夫な折りたたみ傘を飛ばした。頑丈な骨組みの、しっかりした傘を飛ばした。
海の向こうのマレーシアまで。
あの真っ白なアパートまで。
それは、カメラの前で笑うあの日の彼女と同じ色の。
輝いて揺れるいたずらっ子のような彼女の瞳と同じ色の。

音沙汰はなかった。

彼女が何度も慎重に書き直したあの住所は、所々欠けていたようだし、東南アジアの国々では日本から送った荷物が届かないなんてよくあることのようだ。
ネットもつながらないあの部屋からはメールもLINEも飛んでこない。
傘はあの手に届いたのだろうか。


けれどそれは、別にいい。
高齢でたまに節々が痛むと言っていた彼女が、今も元気で暮らしていたらそれでいい。
あの部屋で変わらず、色とりどりのお粥を作っていたらそれでいい。

シーツに糊付けする方法を、青い花のお餅の甘さを、眠くても共に過ごす時間を優先することの温かみを、ピリッと走る言葉の奥に情が隠れているという事実を、教えてくれたひと。
あの朝、二人の間に流れていた空気は、母娘のそれだった。

ブルームーンの下を、彼女の影をなぞりながら歩いてく。
きっとこの先、幾夜も。
きっとそう、今夜も。


Once in a blue moon.

あなたは今もひとりで、あの部屋にいるのだろうか。

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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!