仰げば尊し
春は青く澄んで旅立つ人を運んでいく、空のような季節だ。
この季節に思い出すのは、あの白い便箋の、あの白い部分。
柔らかな青空にそっと右足を乗せた私の目に焼き付いた、あの真白な部分。
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人を、嫌って憎んで放ったことがある。
これといった理由も見当たらなかったのに、どうしようもなく気味悪く思えてとにかく汚れて見えて全力で拒絶したことがある。
それは中学の頃の担任教師。
最初で最後の、男性担任教師だった。
その時私は14になる頃で、多感だの思春期だの反抗期だの、要はバランスを欠いたホルモンに操られていただけの生半可で生意気な小娘で、教師経験豊富で学年主任もしていた彼からするとそれはそれは取るに足りない小粒な生徒だったと思うが、一丁前に意見したり頑なに閉ざしたりした。
放課後呼ばれた時だって、向き合おうとしてくれた彼と同じ空気を吸っていることにすら耐えられず、一言も喋らなかった。
進級を控えた年度末、来年度は別の担任にしてくれと、そうでなきゃ不登校になってやると、そんな幼稚なことを宿題のノートに書き殴った。返ってきたそれには一言、赤ペンで『分かりました。』と書き足されていた。
春が来て、教室が2階から3階に上がり、私の担任は代わった。
それから一切、彼と私は接点をもたなかった。同じ階に属し、日に何度もすれ違いながら一言も交わさず、視線すら交差させずに。すぅー、とよく切れる鋏で布を裁断するかのように、私は彼を切り取ったのだった。
甘えていただけ。その包容力の中で、暴れていただけ。彼はその包容力の中で、暴れさせてやってただけ。
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卒業式まで一週間ほどのある夜に、私はペンを手にとった。長い長い手紙を書いた。
浅はかで幼稚だった一連の悪態について詫びたあと、現在の思うことや未来への展望などまで書き連ねた。後悔や想いや懺悔や希望がまぜこぜになった長い長い手紙を書き終えた。
廊下をゆっくり歩いてくる先生の前でぴた、と止まる。手紙を書きました、とひとこと言って封筒を差し出した。
あ、と声が漏れたあと、彼の視線はすぐに宛名の上に留まった。ありがとう、と穏やかな声が降ってきた。彼は、野球部顧問のその分厚い掌で、分厚い封筒を受け取った。
それだけだった。私達はそれぞれの行く先に向かって歩き始めた。何事もなかったかのように。一瞬すれ違っただけのように。いつもと変わらぬ歩幅で、いつもと変わらぬ表情で。けれど確かに私は鍵を渡し、確かに彼は受け取って。
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胸に咲くのは赤い花。整然と並ぶは紺の制服。雪深い地に桜が芽吹くのはずっとあと。青空だけは春を帯びて。
『学校』を『学び舎』と呼ぶ唯一の日。いつかの笑い声で膨らませた生成りのカーテン。幼い失敗を転がしたままの教室の床。前だけを見る最後の日。向かうは、花と拍手で埋もれる体育館。
その時、静寂に佇んでいた視界にすっと、音もなく切り込んだ大きな指は、白い封筒を挟んでいた。
卒業式の帰り道、友達と別れたあと、家まで待てずに急いで封を開け、道の端に立ち尽くした。
何が書いてあったのか、ちゃんとちゃんと読んだはずなのに、思い出せない。簡潔だったか、長文だったか、それすらも思い出せない。ただ、未だに残っている一行。
『行間にまで、僕の思いを込めました。』
その一文は、15の柔い胸の奥に音もなく入り込み、この体の一部となった。
私は便箋に散らばるいくつもの行間を見つめた。広かったり狭かったりしていた。大切そうにひとこと、ひとことを包んでいるようだった。
ふっ、と顔を上げると、まっさらな空の青に、ぽっかりと行間の残像が浮かんでいた。
仰げば尊し、我が師の恩。
それは彼の思いのかたちをしていて、くっきりと澄んで真白だった。
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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!