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まとわりつく影

老若男女全く問わず、私には「美しい」と思う人達がいる。
私が持ち合わせていないその「美しさ」が垣間見えた時、私はただ息を潜めて必死にそれを目で追うしかない。

「美しさ」といったら、人は何を連想するだろう。
自信だろうか。
明るさだろうか。
艶めきだろうか。
輝きだろうか。

それらは確かに美しい。
生き生きと輝く人は確かに美しい。
しかし、私が吸い込まれる「美しさ」は、いつもその逆の性質をもっている。
それは、
涙や後悔と共に香り立つ。
失敗や挫折と共に滲み出す。

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引退会見だったのだろうか、特に観たい番組も無く、チャンネルを回していた時、目にした会見だった。
あぁフィギュアスケートか…。そういえば、大会があったんだっけ。あぁほんとに面白い番組が無い…。私はリズムを刻むように次のチャンネルのボタンを押そうとして、手を止めた。
真っ直ぐな視線と言葉が、私を捉えたからだ。


精一杯の力を出してもこの結果。
ここまで来てしまったのか、自分はここまで落ちてしまったのか、と。

確か、彼はこんな言葉を口にした。
大会は、うまく行かなかったのだろう。
かつて栄光を勝ち取った人が今や、若く勢いのある後輩達にどんどん追い抜かれる立場となったのだろう。

努力して努力して突き進み続けた道の最果てに居たのが、こんな言葉を言うこんな自分だった。
誰が言いたいだろうこんな言葉を、彼は言った。
確かに言った。

チャンネルを回し続ける手も止まるしかなかった。
あまりに彼が、美しかったから。


自分の力が徐々に衰えゆくのを見届けて、自分自身の限界を認め、自分自身の死を看取る。
泣きながら滑った幼い自分に、歯を食いしばった少年の自分に、誰よりも風を切って進んだ青年の自分に、しずかに、花を手向ける。
浴びるほどのフラッシュライトから、堂々と昇る日の丸の景色から、輝かしい大舞台のリンクから、しずかに、彼は降りた。

薄っぺらい液晶画面の中、自身の死を「認める」彼の顔を、私は黙って見ていた。
シーリングライトが、画面を無機質に光らせる。
冷たい光に濡れる彼の顔。
それでもなお、彼の中の感情や血液が、脈々と流れているのを感じた。
穏やかな一言一句、意味を含んだ瞳の色、マイクを握る手、その全てに、彼の強さと美しさが乗っていた。

テレビの前に立ち尽くし、彼の最期を見つめながら、私の脳の片隅は、ゆっくりとある女性を思い出していた。

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「ごめんごめん!ありがとう!」

勝ち気な大声が鳴り響く教室。
静かにノートをとりながら、私も気づいていた。板書する担任の文字が誤っていること。
以前から、たまにあった。
完璧主義で気の強いこの女性担任が、整然とした文字で書き間違えること。

私は黙って頭の中でそれを正しく変換し、黙ってノートに書き込んだ。
教室の沈黙を破る勇気も無いし、担任の過ちを正す勇気も無い。

すると、正義感の強いあの子の明るい声が、室内の沈黙をさーっと斬る。
「先生ー、そこ間違ってます。」
いつものことだ。

担任は、えっ、と小さく言って、板書の手を止め、後退りして黒板から少し離れる。
やや広がった視界の中で、え、どこどこ、と見回している。
「もっと左です。〜しましょう、の下です。」
女子生徒は、その箇所を指差して言った。

「あっ、これか!」
担任がすっと黒板消しを掴んだ。
この後、あのフレーズが追いかけてくるのを知っている。

「ごめんごめん!教えてくれてありがとう!」

その日もやっぱりそう言った。
完璧主義で勝ち気な大人は、大声でいつもそう言う。子供相手に、その大人はいつもそう謝る。
それがたまらなく好きだった。

間違いには、未熟さや幼稚さや足りなさが自動的に付随している。
それらを全て認めてはっきりと謝る。
いつもの堂々とした正論と厳しさを潔く脇に置いて、彼女は謝る。
すると不思議なことに、その正論はさらに正しく、厳しさはさらにその強さを増した。
彼女はさらに清く大きく輝いた。
それがたまらなく好きだった。

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認めたくないものはこの世の中のそこら中に転がっている。その中でも特に認めたくないのは、自分の非だ。
情けなくて恥ずかしくて、気づかぬふりをして過ぎ去るのを待つ。
でも、それは絶対に過ぎ去らない。
過ぎ去ってくれない、認めるまでは。

目をそらし続ける私にぴったりと、影のようにつきまとうだろう。

だから彼らは白いのだ。
だから彼らは光るのだ。
自身の過ちを認めた彼女も、自身の死を認めた彼も。
まとわりつく影をきっぱりと切ったのだから。それは清い光に焼かれて天に昇ったのだから。

あれは過ちだったのだろうか。
あれは死だったのだろうか。

否定的なことは、否定すべきことは、この世に存在しないのではないかとすら思えてくる。

彼らの真白な美しさを見ていると、よく分からなくなってくる。
幾人もの黒い影を引き連れて歩く私には、よく分からなくなってくる。

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