ただ毎日生きていく

今日はオンライン寺院であるエア寺の「いのちの会」にて、一大事をテーマにお話をしておりましたが、自分にとっての一大事に備えて生きていられるならば、その一大事が嬉しいことにせよ、苦しいことにせよ、悔いのない生き方になるのだろうなと思うに至るような話でありました。

では悔いがないように備えることもできて、日常にも満たされる気持ちがありながら生きていけるとしたら、日々はどう生きていくのか。それは、ただ毎日生きていけばいいという結論に至るように思えてきました。


昔はなんだか目標も持たず、目指すものもなく、ただ生きているなんてのは死んでいるのと同じだなんて思うこともありました。

しかし実際に目標を見据えて生きてみて、それに翻弄されるような生き方をしていた時期を経て、また思いがけない嬉しさに満たされる生き方を知り、生きることの楽しみ方について理解が進んできたとき、目標や意図を持ちすぎないほうが、むしろ縁があることを受け入れられるなんてことがあることもわかってきました。


そして目標や意図といった、自分が見えていた世界での判断に基づく生き方を超えられることを信じてみようと思えたとき、思いがけないご縁は向こうからやってくることを実感するわけです。

なんだったら、意図通りだと思っていたことすらも、たまたま向こうからやってきたタイミングが合致していただけで、意図しないことも、意図したことも、全てそうして向こうからたまたまやってきていて、その景色を楽しむか楽しまないかなのだとわかってしまえば、この映画はどんなストーリーなんだろうって思えばいいってことに合点がいくかもしれません。


まあ、そう捉えても生き方だし、意図通りにいくかいかないかという捉え方もまた生き方だし、自由にこの時間を楽しめばいいんじゃないかと思うようになってきましたもうすぐ39歳のおじさん。

ただ毎日生きていくということは、同じようなことを繰り返しているという単純なものではなく、今日一日を自分なりに本当に大事に、したいと思うことも、できることも、ただそのとき一生懸命にやるだけなんだなと思うからこそ、そこにただ生きるだけという意味になります。


意外と面白い役柄をもらえていることに気づけば、この人生ってのは素晴らしい筋書きなのかもしれないと、ワクワク過ごせるのではないかと。偶発性を感じさせる、それでいて不思議なご縁がきちんと用意されている、映画のような、しかしシビアなところもある、気の抜けない物語だなと。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。