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「合理的配慮」って何だ?

今年(2024年)の4月から改正「障害者差別解消法」が施行されるとのことなので、内容の理解のために説明会に参加してきました。

私も不勉強で知らなかったのですが、日本では障害者雇用促進法が1960年に制定されていたのに対して障害者差別解消法は2013年に公布されたとのことで、まだ10年そこそこの歴史しかありません。

しかしながら、今回の改正で大きく変わった、というか前進したと思われるのが、障がいを持っている人に対する「合理的配慮」が「努力義務」ではなく、行政機関や事業者にとっての「法的義務」となり、守らない場合の行政措置や罰則ができたというところでしょうか。

具体的には、身体・知的・精神の障害を持っている人たちが、それを理由に不当にその人が求めるサービスを受けられない、ということがないようにできた法律が改正されて強力になったということです。

前進だと私が書いたのは、以前DEIDiversity Equity and Inclusion)について書いた以下のnoteの中で触れた、Equityについての考え方が日本でも取り入れられつつあると感じたからです。

noteの中では「格差」や「差別」をなくすことについて障がい者に関わらず、男女であったり人種であったりと様々な場面で考える必要があると論じさせていただきました。
が、実際どうやってそれをしてゆくのかと考えてみると、なんでもやるということでもないわけで、そこに「合理的な配慮」という考え方が登場してくるわけです。

でも、それってどういうことでしょうか?
どの程度までの配慮をすることが合理的と言えるのでしょうか?

法の中での「合理的配慮」

障害者差別解消法の中での合理的配慮について言えば、同法の第8条2項に次のような記述があります。

第8条 事業者は、その事業を行うに当たり、障害を理由として障害者でない者と不当な差
別的取扱いをすることにより、障害者の権利利益を侵害してはならない。
2 事業者は、その事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としてい る旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害 者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に 応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をするように努めなけれ
ばならない。

改正障害差別解消法第8条

これをものすごく平たい表現で言い換えると、
「サービスの提供を受けたいと言われたら、障害を持っている人でもそれができるようにできる限り助けてあげなさい」
となるでしょうか。
ここでの合理の基準は、事業者にとっての過重性が理にかなっているか、ということのように取れます。
逆に言えば、「いやいや、それうちにとっては大変なことなので…」なったら法的責任は問われないということですね。

大抵の法律には、法律の条文に沿って「基本方針」や「対応指針」というものが定められており、この合理的配慮についても指針が提示されています。
それらは、以下のとおりです。

①事務・事業への影響の程度(事務・事業の目的・内容・機能を損なうか否か)
当該措置を講ずることによるサービス提供への影響、その他の事業への影響の程度。
②実現可能性の程度(物理的・技術的制約、人的・体制上の制約)
事業所の立地状況や施設の所有形態等の制約にも応じた、当該措置を講ずるための 機器や技術、人材の確保、設備の整備等の実現可能性の程度。
③費用・負担の程度
当該措置を講ずることによる費用・負担の程度。複数の障害者から合理的配慮に関 する要望があった場合、それらの複数の障害者に係る必要性や負担を勘案して判断 することとなります。
④事務・事業規模
当該事業所の規模に応じた負担の程度
⑤財務状況
当該事業所の財務状況に応じて負担の程度

厚生労働省の「障害者差別解消法福祉事業者向けガイドライン」より抜粋

これまた簡単に言うと、本業への影響なく、物理的・組織的に無理なく、負担が大き過ぎないものということになるわけですが、これは業態や事業者の規模によって変わってくるので「そんなこと言ったってウチはそれやると苦しくなるんだよ」というグレーゾーン(主観が入る余地)が存在し、それに対して法律違反だと言おうものなら揉めそうですね。
ただ行政についてはちゃんと対応しないとまずいことになりそうです。

実生活での「合理的配慮」

ちょっと固い法律の話をしてきましたけれど、法律でこのように定められたことは自ずと私たちの実生活に少なからず影響をしてくることになります。

障害を持っていなくても、何らかのサービスを自分が受けるときにその場にいた障害者がどのような合理的な配慮を受けることになるのかをみる機会はあるでしょうし、自分の仕事の中でその合理的な配慮をする機会が出てくれば、そこでの倫理観は日常生活にも現れてくることになるからです。

実生活での合理的な配慮ってどんなことがあるでしょうか?
分かりやすそうな例を一つ出してみましょう。

視覚障害者が白杖を落としてしまい助けを求めているとき、横を通りかかった自分はとっても急いでいたとして、もし立ち止まって白杖を拾い丁寧に渡そうとすると電車に乗り遅れ、一世一代の大切な案件を逃してしまう…
みたいな場合の合理的な配慮…

周囲から見たら、
なんですぐそばにいるのに助けてあげないんだ酷い人だ!
みたいになるでしょう。
でも、本人にしてみたらそこでそんなことで一世一代のチャンスを逃す方が非合理でしかない…

いやいや、それは「合理」じゃなくて「合利」でしょう。
…なんて言わないですよね?
私もどっちが正しいとかは言えないですけれど、言いたいのはそのくらい「合理的」って頼りないものではないだろうか、ということなのです。

それって本当に「合理的」なの?

おそらく、ここで考えないといけないのは「誰の理」に合っているのか、なのかもしれません。

先ほどの視覚障害者の例で言うのであれば、電車に乗り遅れないように白杖を拾って手渡さないことは、その人にとっての理ではあるでしょう。だけれど周りから見ている人にとってはそれはわからないでしょう。

ひょっとしたら、助けていたら間に合わないと思った時点で誰かに大声で
「すみません!私は急用で対応できないのでこの方を助けて!」
みたいに叫んだり、別の誰かに頼むと言うことができると良いのかもしれませんけれど、それって「自分が酷い人だと思われないように言ってる」風にも取られかねませんし、頼まれた側(公的な立場でもない限り)も戸惑いを覚えるのではないでしょうか。

言ってみれば「自分が考える理」ではないと言うことで、法律的な表現で言うならば「公序良俗」であったり「倫理的」な判断、つまりは客観的に考えて助けることはできるでしょう、と言うのが「合理」になってくるでしょう。

言い方を変えると、「自分一人で考えて合理的だと勝手に決めつけない」ってことではないかな、と。

実生活における合理的配慮においては注意しないといけないことがもうひとつあると思います。もう一つと言うか、そっちの方が根本なはずなのですが、もっと難しいかもしれない点です。

法律の条文の中に「意思の表明があったときに」と言うのが出てきます。
この意思の表明ができる状態を作っているかどうか、についてはどうでしょうか?
言いにくい、伝えにくい状況を作ってしまってはいないでしょうか。貴方がというのではなく、社会環境自体がそうなっているということもあるかもしれません。

あるいは、意思の表明もないのに余計なお世話をしてないでしょうか。
してもらうと却って迷惑だったりするのだけれど、相手は親切でしてくれてるつもりなのだろうと考えると「結構です」とも言えなくなってしまい、親切という自己満足に付き合わされるようなことになってしまったり…
ちょっと、酷い言い方かもしれないですが。

大切ななのは、きちんと相手と向き合い、相手の立場や求めているものを分かろうと寄り添うところではないかと思います。
法律やルールはそれを促すためのもので、表面的な行動を規制して守らないものに罰を与えるためのものではないはずだと私は考えます。

皆、等しい価値を持っている命、皆、同じ人間。
だから、誰一人取り残さない社会を作る。

仮に今は貴方は助けを必要としてないで助けるばかりだったとしても、いつかは助けを必要とする側に周ります。そのときに道徳的なインフラが世の中にあることは誰にとっても幸せなことだと思います。
法はそのきっかけに過ぎないけど、それが礎となりうるってことかな、と。

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