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「それは餌か食事か」という問い

「今、自分が食べているものは『エサ』か『食事』か」
少し前に友人と飲んでいる時にそんな話になりました。

友人曰く、ものを食べた後に自分自身にそう問うてみたり振り返ってみたりすると、ほとんどの場合が「餌になってしまっている」ことに気づき、愕然としたとのことでした。
最初は酒の席でも冗談だろうと笑い飛ばしていましたけれど、考えてみれば自分自身も多くの場合に当てはまりそうだと最近になって思うようになりました。

そして、これは食べ物に限った話ではないかもしれないのです。
どう言うことなのか考えてゆきましょうか。

「餌」を食べている時とは

餌と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?
私は、ペットや家畜に与えるペットフードや飼料を思い浮かべます。

しかしながらここで言う「餌を食べる」とは、誰かから餌を与えられている状態ではなく、自分から餌を食べに行っている状態のことを言っています。

少し具体的に考えてみましょう。
私が「多くの場合に当てはまりそうだ」と思ったのは、腹を満たすために食べているときはすべからく餌を食べている状態と変わらないのではないか、と考えたからです。

例えば、お腹が空いたのに会議続きで合間の時間がないので、サクッとカップ麺を作って休憩の間に腹に流し込んだり、昼休みの移動で昼ごはんにそれほど時間が取れないので立ち喰いそばやファーストフードで済ませてしまっていたり、と言う状況が「とりあえず食べて腹を満たしている」典型的な状況でしょう。

でも、よくよく考えると、別に急いでるわけでもなく、お昼の時間になったからとりあえずお腹に何か入れておく、みたいなことをしている時も同じような状況であり、それは日常化してるかもしれないと思います。
食べる必要に迫られて、自分の中に取り込んでる。そこには味わいもないし、消化に良い食べ方もしていないかもしれない…
次に述べる「食事」と対比すると「餌を食べてる」と言う考え方は、より鮮明になるかもしれません。

「食事」をしている時とは

可能な限り豊かな食の経験というのを想像してみてください。
それは、ゆったりとした時間と落ち着ける空間の中で、あなたの大好きな誰かと楽しく語らい、出てくる美味しいお料理に舌鼓を打ちながら味わっていただいているような状況かもしれません。
「お食事」ってそういうものではないかと思います。

レストランによっては、給仕をするウェイターの人が出す料理一品一品について解説をしてくれるかもしれません。
素材がどの地方のものか、料理の仕方、味付けの工夫やそのお酒を合わせると美味しいのかなどを丁寧に。
そんな話を聞きながら、あるいは自然の恵みに感謝をしつつ、一つ一つの料理を味わいながら食べているのではないでしょうか。

一人で食べてないで、誰かと語り合いながら食べるというのも「お食事」が豊かになってゆくための大事な要素の一つだと思います。
お料理を一緒に食べるという行為は、視覚、嗅覚、味覚、触覚を共有する経験でもあるのかなと思います。だからこそ、会食は人と人とのつながりを作る上でとってもパワフルなのではないか、と。

このように「食事をする」とは、そこにあるものに対して感謝をしながら味わい、そこから得られる喜びを共有するようなものであり、そういう食べ方をしているからこそ、消化にも良いし、食べたものが血肉になってゆくのではないでしょうか。

実は、食べ物に限った話ではない

「餌を食べている」になっているのか「食事をしている」になっているのかでは大きな違いがあることが、ここまでで確認できたのではないかと思います。
ただ、これは「食べる」という行為以外にも当てはめて考えてみることができるのではないかと私は考えています。

「食べる」をちょっとだけ抽象化すると、自分にとってのインプット(摂取物)になってきますよね。
どのようにインプットを得るか、インプットをどのように吸収して自分のものにしてゆくのかに、この「餌を食べてる」と「食事をしている」を一般的に当てはめてみるとどうなるでしょうか。

例として、「本からの学び」を取り上げてみましょう。
必要に迫られて、なんらかの知識を得るために本を読んでいるということは誰しもあるのではないでしょうか。
私自身も読書が得意ということはないので、そういう時に一冊の本を早く読んで何が書かれているのかをざっくりと掴んでおきたいと思うことはよくあります。そんな時はかいつまんで読んだり、斜め読みをしてしまっています。

こういう状況は「餌を食べてる」読み方になっているな、と思います。
それが悪いという意味ではありません。必要に迫られて時間もなく、そんな読み方が必要な時もあるでしょう。
しかし、後で振り返ってみると何も残っていないし、読んでいる間の感動のようなものもあったとしても一瞬で消えてしまったりしています。
ひどい場合は、後でその本の話題が出てきた時に、「あ、その本は読んでる」とは思うものの中身が思い出せなかったりする…
つまりは、消化されないまま終わっている、ということになります。

では「食事をしている」ように本から学ぼうとするとどうなるでしょうか。
それは、例えば
・本を読み出す前に、本の書かれた背景や関連知識をしっかり仕入れる
・時間をかけて、著者の言葉の意味や、その意味が出てくる思想的背景を想像する
・想像しながら、五感を総動員してその状況を仮想体験してみる
・自分が大切だなと思ったところに線を引いたり、ノートに書き出してみる
・読んでみてわからないところや感想を誰かに共有して、意見を聞いてみる
ようなことかもしれません。

こんな本の読み方をすると、一冊を読むのに時間はかかってしまうかもしれません。
しかし、そういう読み方をした本は記憶に残りやすいですし、記憶に残っていればそれは誰かに伝えることができます
いわば、読んだことが消化されており、自分の血肉になっているわけです。

このようなことは、本を読んでの勉強に限らず、セミナーに参加してのスキル・アップや、身体的なトレーニングなどにも当てまるものがあるのではないでしょうか。


インプット全てが「食事」である必要はないとは思います。
しかし、忙しい中で「タイパ」や「コスパ」という考え方だけで考えると、自分の中に入ってくつものは、すべからく必要に迫られて腹を満たすだけの「餌」になってしまうのかなと私は思います。

でも、そうなっていることって忙しい日常の中でついつい忘れてしまいます。
また、豊かな「食事体験」や「学び体験」をしたことがないと、そもそもそういうことをするアイディアすら上がってこないかもしれませんね。

最近「餌ばっかりになってるな」と思ったら、ちゃんと「食事をしに行く」ことが大切なのではないでしょうか。
「食事をする感覚」ってどんなものだったのかを思い出すために…
そう、話が弾む誰かさんに声をかけて、一緒に、ね。

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