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「何で記憶されたいか?」

たまには私自身のパーソナルなことを書いてみようと思います。
…というのも人から「何で記憶されたいですか?」と問われたことで考えてみて、自分が何のために働いてきたのかについて気づくところがあったからです。

多くの人が「何のために働くか」や「働く目的」について考えるときに、現時点で考えていると割と目の前の課題しか見えにくいのかなと思います。
自分を突き動かしているものが何であるのかは、得てして後で振り返ってみて気づくことができるものなのかもしれません。そして、自分を何が突き動かしていたのかをそこから一歩踏み込んでゆくと自分が本当に大切にしているものがわかります。
見方を少し変えると、本当に自分にとって大切なことに打ち込んでいる時って、それを意識するよりも無我夢中、我武者羅になっている時なのかもしれないということなのかもしれません。

私のストーリーを読んで、そこから自分の場合はどうかと気づくものが読んでくださっている方にもあったら良いなと思います。

そもそもの始まり

就職活動をするとき、私には特にやってみたい仕事というのはありませんでした。当時は金融や商社が花形でしたけれど、私はそこには魅力は感じておらず漠然とモノづくりに関わる会社、それも素材をやっていれば間違いない(安定という意味で)とか考えていました。
つまり、会社という容れ物の可能性や面白さで就社活動をしていたとも言えるかと思っています。

ですので働く目的は「食ってゆくため」であり、そのために求められることであれば何でもやろうと考えていました。仕事に面白さは期待してませんでした
ところが、内定者研修の段階でそれは大きな期待に変わりました。

80年代前半は、まだバブル崩壊の前だったこともあるのでしょうか、研修の内容は即効性のあるスキル研修よりも個人の考え方や価値観に触れるような自己啓発系の研修が多かったです。
特に新入社員や内定者は、学生のマインドセットから社会人に求められる「正解を与えられるのではなく自分で考える」への切り替えを求められることがあり、自己啓発的な色彩が強くなりがちでした。

その内定者研修は、確か3泊4日の合宿式の研修で、内定者だった文系同期22名がオフサイトで文字通り同じ釜の飯を食べ、相部屋で夜遅くまで語り合うようなものでした。
どんなテーマだったかは忘れましたが、社会人経験のない内定者にとってはかなり頭を使う内容で、夕食後も(内定者だから残業つかないし、いいのか?って感じですけれど)遅くまであーでもないこーでもないと話をしていると講師役がやってきてほぼ一からやり直しのようなことを言われて眠れなくなる…みたいな感じだったのは覚えています。(今の時代じゃできないでしょうね)

そんな濃密な経験をするので、内定者同士の結束は「同期の」とも呼べるように入社前の時点で出来上がります。入社後もともに頑張ろうというものすごいエネルギーが出来上がってゆくのを自分自身の中でも、同期の他のメンバーを見ていても感じ、そこから「社会人は面白いかもしれない」と思えるようになり、さらにはその場にいた会社の人、すなわち人材開発を行う人事の担当部門である「能力開発部」に所属する人たちはすごい人たちだなと思えたのでした。

まさか自分がいずれ人事をやることになるとはこのときは夢にも思っていませんでした。
私は事業部門の営業に配属され、その後16年に亘って人事とは全く関係のない仕事をしながらも、時々行われる能力開発部主催の研修で知恵の塊のような人たちに時々会えるのを楽しみにしていました。

転機 〜能力開発部へ〜

事業部門にいた十六年間では私自身はとりわけ目立って大活躍というほどのことはありませんでした。ただ、新しい領域ややり方を作ってゆくのは好きだったので、90年代前半にノート・パソコンを持ち込んでの営業活動の先鞭をつけ、営業部門の近代化を行ったり、その後移ったマーケティング部門でもいくつかのプロジェクトの遂行や売り上げの多面的な分析をパソコンでバリバリ行ってゆくような人材だったと思います。
まぁ、他の人から見れば器用に色々テキパキとこなしている使い勝手の良い社員という風情で、ずば抜けてできるという感じではなかったかもしれません。当時は売り上げという結果をしっかり出しているか、上司から気に入られている人が上から順に出世してましたので、私はその順番を変えるほどのインパクトを出してはいなかったということだと思います。

この先もずっとこのように器用貧乏で終わるのかなぁ、ぐらい考えていた30代半ばに意外な転機がやってきました。社内公募制度が会社の中でスタートし、能力開発部が営業の能力開発の仕組みづくりをするために営業経験のある人を募集したのです。
事業部門で行き詰まり感があった私は、上司に仁義を切る意味で応募する旨を伝えると、根拠のない自信「営業の能力開発ならば近代化でやった、自分よりも適任はいないはずだ」を胸に応募し、なんとか採用してもらえました。

こうして人事マンとしての私の仕事人人生の第二章が、能力開発部員として始まったのでした。

消された「能力開発部」

能力開発部での最初の一年は、自分が今から振り返ってもすごかったなと思うほどのエネルギーを発揮しました。
まだ若かったし人事も能力開発のことも分からないの当たり前だったので怖いものなし、人事の中で営業のことを熟知している自分がやりたいようにズイズイと物事を進め、米国本社の人事のトップから表彰された程でした。
自分的には大したことをやった感覚はなかったのですが、周りからは多分驚異の目で見られていて、おそらくは上司が表彰にノミネートをしてくれていたのだと思います。ありがたいことです。

ミッションであった営業部門の能力開発の仕組みづくりは1年を待たずにおおよその形ができたというところで、まさかの経営企画部門への異動辞令が私に通達されました。
仕事でヘマをしたわけではないことは分かりましたが、これからというときに能力開発部から離れるのは自分としては釈然をしない感じはありました。
でもまぁ、サラリーマンですからそこは割り切って経営企画部門に移りました。仕事人人生の第二章は最初の数ページでどんでん返しに出くわした感じでした。

経営企画部では、営業部門の能力開発を引き続き行いながらその仕組みをマーケティング部門にも展開しました。さらには全社の戦略策定や各事業部門の事業戦略策定とそれができるようにする能力開発にも関わりながら、社長や副社長命で実に様々なプロジェクトに当たらされました。
華々しい結果を出していたとは言えないとは思いますが、どれもそつなくこなしながら、ここで結果を出して再び能力開発部に戻ろうと思っていました。上司とのキャリア面談などでも口を開けばそればかり言っていたので、上司も苦笑いしていたのを覚えています。

経営企画部には二年半いました。最後は戻さないならば辞めるぞぐらいのトーンで自分の希望を伝えていたと思います。念願叶っていざ戻るとなった時、想定外のことが起こりました。
「能力開発部」は組織変更でなくなっていたのです。

というのも、私が異動するちょっと前のタイミングで外部からやってきた新しい人事部長が組織を再設計し、採用と能力開発、人事企画(組織開発などを行う)を「人事戦略部」という部門に統合をしたのでした。
というわけで、私は人事戦略部の能力開発グループのマネジャーというポジションで仕事をすることになりました。仕事の内容自体は経営企画部に異動する前と大きく変わるものではありませんでしたし、それに加えて企業文化を変えてゆくという非常にやりがいの仕事にも携われたのでより面白い仕事ができるようにはなっていましたが、私にはどうしても引っかかるものがありました。
それは、社内外から「能力開発部」が見えなくなってしまったことでした。

社員の能力開発を行う部門が独立して存在し活動しているということは、会社が人に投資をしているということをメッセージとして発信していることに他ならないと私は考えていました。
また社外から見てイノベーションで有名な会社でもあったので、イノベーションを生み出すための人づくりを行う部門がしっかりある会社なんだと社外からも見られる効果もありました。
「人事戦略」というと格好はよく聞こえますけれど、それよりも人を大切にして投資している会社なんだということが伝わることの方が大切なはずだ、と私は考えていました。部門として復活させるべきだ、と。

「人事戦略部」はその後三年ぐらいはあったでしょうか、部門人事を担当する部門を強化させる必要が出てきたタイミングで部門としては解散になり、いわゆる「人事部」と「採用グループ」と「能力開発グループ」に分割されました。そして私は引き続き「能力開発グループ」のマネジャーを務めました。
グループ、というのは組織図上で部門名として現れず、そのグループができることについての辞令もなかったので依然、社員からも社外からも能力開発部は消されたままの状態でした。

雌伏、そして復活

能力開発グループは、私と部下が2名の3名という小ユニットでした。その3名で2500名いる社員の能力開発を全て賄うというのは結構な仕事でした。メンバーの入れ替わりなどもあり、たった一人で全てやっていた時期も一時ありました。

その状態に加えて、2008年にリーマン・ショックが起きました。その煽りを受けて人事部門でも大幅なコストカットを行うことになり、マネジャーだった私は人事担当役員から相談を受けました。というのも、当時は外部の研修会社を使って研修を数多くやっていたので、能力開発関連の費用がバカにならない金額だったのです。
私が一人で頑張っているのを知っている役員が言いにくそうに「どのくらい削減できそうか」と尋ねてきたのに対して、私が「全体でどのくらい削る必要があるんですか?」と尋ね返すと、1−2割という答えが返ってきました。
しかし、会社の業績が下がってゆくのを見るととてもそれで済むとは思えず、今2割下げてなんとかしようとしたら追加でさらに削減依頼が来ることは見えていました。そこで「わかりました。ではうちのグループはコストを半分にしてみせます。そこはプロテクトしてもらえますか?」と掛け合い、合意を得ました。

部門としての名前が見えなくなり、担当者はひとり、予算も半分に削減、とまさに風前の灯状態になりました。
しかし、新入社員研修と新任管理職研修というクリティカルな部分は死守しつつ、他のプログラムの内製化を進め、私自身も年間に数十回ものトレーニングをファシリテートして、人材育成の火を消さないよう奮闘し続けました。

その翌年、コスト削減の効果もあってか会社の業績は持ち直しました。
そして2009年の9月に人事担当役員から昇進の内示を言われました。同時に部門が「グループ」から「部」に昇格することになったのでした。

「部門名は『能力開発部』でいいかな?」
と役員から相談され、ちょっと考えてから
「『人財開発部』でお願いできますか?『ざい』は『財産の財』の方です」
と答えると、役員はにっこり笑って
「いいね、人を大切にしていることが伝わってくる」
と了承してくれました。

本当は「開発」というのも烏滸がましくてあまり好きではなかったのですが、社員の記憶の中に「能力開発部」がまだあることを考えるとそこからかけ離れたネーミングにするとまだ人事戦略部の二の舞を踏むなと思ったのと、単なる復活ではなく部門の名前を変えることで話題にもなり、会社のメッセージも鮮明に伝わるのではないかと思いました。

こうして、社員にも社外からも見える形で人を育成する部門が復活しました。

何で記憶されたいか

2009年10月に発足した人財開発部の長として、その後部門メンバーの増員もしつつ、社員教育の考え方や仕組みはリーマン・ショックで削られたところから立て直し整えました。対外的にも講演を積極的に行い、精力的に新しいプログラムの開発を行ってゆきました。
そして1年後の2010年にはおおよその形が出来上がり、自分の中に「やり切ったな」という感覚が芽生えました。もうそろそろ、いいかな、と。
なので、あとは自分がこうしたいと思い何かをやるよりも、自分の後継を育てつつ自分は別のことを探してゆく感覚になっていました。
そして2年後、後任に部長の座を譲り、私はビジネス部門担当のビジネスパートナー人事(HRBP)へと役割を変えました。

その後私が人財開発部に戻ることはありませんでした。2015年には転職で会社を変わったので、それから6年経った今では私のことを覚えている人も数少なくなっているかもしれません。
でも、私が居なくなっても前職の会社の人財開発部はまだ残っています。復活してから12年が経とうというところなので定着しつつあり、おそらく今後の組織変更でも残るでしょうし、そうなって欲しいなと思っています。

私が組織人として仕事をして我武者羅に働き続けることができたのは、自分を強く突き動かすものが有ったからだったのだろうと思っています。
そして、それは自分の軸であり使命のように感じていたのかもしれません。
その部門が独立してある状態を作り出すことで『人を大切にし、人に投資し続ける会社である』ことを社員に世間に示すのだ、と。

だからこそでしょうか。
人から「何で記憶されたいか?」と問われたら、
「人財開発部を作った人」と言われたい、というのが私は浮かびます。
例え、前職の会社でほとんどの人から存在が忘れられてしまったとしても、「なんで人財開発部なんですか」という問いが発せられた時に、こんな人がいたんだよって話してもらえたとしたら、涙が出るほど嬉しいかな、と。

破壊された瓦礫の中に光を見、道のないところに道を作ってゆく…
自己満足的な美学だけれど、そうやってできた道の上を人々が笑顔で通ってゆくビジョンが浮かぶ時、自分がやってきたこと生きてきたことを意味を見出せるように思っています。


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