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甘えについて

Voicyで、「頼る」と「甘える」はどう違うのかという考察が語られていました。
面白いテーマだなと思います。

「頼る」はある程度は客観的に判断できて、誰もが同じように感じるかもしれませんが、一方の「甘える」は人によって感じ方が異なっているかもしれないと思います。

放送の中では、「面倒なことを人に押し付けて甘えているのではないか」と思われたくなくて人に頼ることができず苦しんでいる人の話が出てきていました。どうしたらうまく人に頼ることができるのか、と相談です。
疲れていていっぱいいっぱいになっているのに甘えるわけには行かないと思って人に頼れない、と言うことですね。

辞書の上では、頼るは「助けてくれるものとして寄りかかる、頼みにする」であり、甘えるは「可愛がってもらおうとする、まとわりついたり物をねだったりする」とが最初に出てきて、ニュアンスがかなり違うのだけれど、見た目には同じことをしているかもしれないことが窺えます。

好意に対して遠慮なく寄りかかると言うのも「お言葉に甘える」ということになりますし、助けを求めてこちらから寄りかかると「頼る」と言うことにもなりますので、こうやって考えてゆくとややこしいですね。
頼ろうが甘えようが、相手がしてくれることは一緒ですので。

私自身は、自分ができることであるにも関わらず人に頼んでる、状態を甘えていると考えてます。
程度の問題はありますけれど、ここでいう「できる」と言う状態は、能力的にも精神的にも可能である、と言う意味になります。

また、甘えるには自己責任を果たしてない感じもあるかなと思っています。
自分からやると言い出したことがそれほどやり込んでもいないうちにできないと感じて「助けて」とか「ギブ」とか言われると、甘えているなと思います。
やると言ったからには、その時点で能力的か精神的かその両方かで可能と感じたからそう言ったわけで、やり切ってもいないうちに根を上げるのは自己責任を果たしていないし、甘えだよなぁ、と。
ちょっと厳しすぎますかね?

甘えは日本独特の言葉

甘えという言葉を英語にしようとすると、実は出てきません。
出てこないというのは、それに相当する単語がない、ということです。
behave like a baby
と多くの和英辞書では出てくるのではないでしょうか。ちょっとこれは良い大人にいうことではないよな、という印象を受けますね。

「赤ん坊のように振る舞うな」
ということになるのでしょうが、赤ん坊は自分では何もできませんので、親に寄り添って甘えて代わりにやってもらうことになります。
日本語としても「子供を甘やかす」などは、子供が自分でできることなのに親が代わりにやってしまい学ぶ機会や成長の機会を損なわせてしまうという意味で使っているかもしれません。

大人に対して「甘え」という言葉を使うのが日本だけだとすると、ここから日本人独自のメンタリティが透けて見えてくる感じもあります。
甘えること、甘っちょろいことで得られる何かがそこにあり、それは実は日本人にとって大切なもの、いや、不可欠な物なのかもしれません。

もうずいぶん昔ですが、「甘えの構造」という本を読んだのを思い出しました。

その本の中でも「甘え」という言葉が他の言語にはないことに著者が注目していました。甘えとは「周りの人に好かれて依存できるようしたい」ということで、その根底には個人と個人が分離されてしまっている状態にある分離の痛みを和らげたいという欲求があると言われています。
マズローが言う欲求5段解説の安全の欲求と所属の欲求が結合してしまっているような感じかもしれません。

こんなことが考えられるかもしれません。
日本は山の合間に村があるような地理的環境があり、狩猟民族時代から村から追い出されると危険な山の中で一人で生きて行かなければいけなくなり、それは死を意味することになる。
つまり、社会から分離されてしまったらそれは痛みを超えて死につながってしまうため、そうならないように巧みに「甘える」ようになりますし、それを許容しないとコミュニティは成り立たなかったのではないでしょうか。
これはひょっとしたら、異民族が外敵として攻めてくるような大陸的な状況とは大きく異なっているのかもしれないですね。

頑張りの向こう側に甘えはあるのか

少し私自身の話をしましょうか。

20年ほど前にキャリアショックを経験してからの私は、自分の能力の研鑽と効率的な仕事のやり方を日々追求してきました。
自分の職務責任や目標はだいたい自分の持っている能力の50%ぐらいを出せば達成できるように、バーが上がればそのさらに上の能力を獲得しに行きました。その頃の上司が「いつも背伸びしてる」という表現でフィードバックをくれました。自分としては、無理して背伸びしている感覚はなかったのですが、周りから見ると過剰に見えていたのかもしれません。

でも、そう考えてきたからここまでやってこれたのだと考えていました。
少し驕っていたのかもしれませんが、自分には大抵のことはできるし、まだまだキャパには余裕があると思っていました。

しかし、4年半ほど前、その考え方は変わることになりました。
…考えてみれば、同じようなパターンは過去にもあったかもしれませんが、その時はなんとかなったので、考え方は変わりませんでしたし、むしろ強化されていました。

いくつかのことが同時に重なりました。
採用活動を外部に委託することになった流れで、採用担当をやっていた部下が他部門に移動になりました。その翌月に上司が定年退職をしましたが、後任が決まっておらずしばらくの間上司がやっていた人事担当役員の仕事を私がすることになりました。
まぁ、後任が来るまでの短い期間だし、一時的だから皆も手加減してくれるだろうからなんとかなるだろう、と軽く考えていました

ところが、採用活動の委託先がなかなか決まらず、私自身がそれほど得意ではない採用活動をしばらくの間やらなければならなくなりました。自分の仕事がなくなっていたわけではないので、この分は完全に上積みされた形です。
そして、上司の後任はいつになったら来るのかが一向に見えてきませんでした。同僚と力を合わせてなんとか乗り切ろうとしていた矢先に、頼りにしていた同僚の一人、工場の人事担当が辞めることになってしまいました。後任の手配は目処が立ちません。他の同僚は工場への出張ができない立場であったこともあり、仕方がないので工場の人事も私がやらないとどうにもならなくなりました。

部下がやっていた採用の仕事、上司がやっていた人事担当役員の仕事、同僚がやっていた工場の人事の仕事、そしてもちろん自分自身の本来の仕事…
4人分の仕事をすることになりました。しかもいつまでその状態が続くのかの目処も立ちません。

頑張ろう、きっとそんなに長くはかからない。ここが正念場だ。やったことないことばかりだけれどいい経験になる。
そんなふうに無理やりポジティブに最初は考えましたが、4人分の仕事となると流石に定時内では終わりません。残業は増え続け週末も休まず働き、月間の残業時間は200時間を超える…そんな日々がしばらく続きました。

「新卒採用やらないといけない時期ですよね?今年はやめておきます?」
同僚の一人が私に聞いてきたのはそんな最中でした。
あ、そんな時期か…やばい、何にも考えてないや。
新卒採用は3年前になんとか復活させて、継続していかないと良い学生が来てくれるようにならないということを強く感じていたので、「今年はやらない」とは言えませんでした。
「や、やろう…でも、俺もういっぱいいっぱいだわ」

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その言葉を聞いて同僚は「私たちでやりますから大丈夫です。去年どうやったか教えてくれたら、そこから先は任せてください」と言ってくれました。
涙が出そうになりました。
「ありがとう。じゃぁ、お言葉に甘えさせてもらうよ」

このあと、私はかなり気持ちが軽くなりました。
新卒採用の仕事を同僚がやってくれることになっただけですので、相変わらず四人前の仕事をしていますし、業務量が減ったわけでも残業がなくなったわけでもありませんでした。
それでも、「甘えちゃいけない、頑張らなければ」からは解放されたので、それが大きかったのだと思います。

バーンアウトにならないために

今にして振り返ると、なんでもっと早く人に頼れなかったのだろうと思います。
私の中には「頑張りきっていないくせに人に頼るのは甘えだ」という思い込みがかなり強くあり、それが私を縛り付けていたのでしょう。

自分の能力の限界に挑戦しようとか、どこまでできるかやってみようとか考えていましたけれど、逆に言えば自分の限界をわかっていない状態だったとも言えるかもしれません。

いずれにしても、このような考え方はかなり危険で、バーンアウトに直結するかもしれないです。ヒーヒー言いながら一人で頑張って、緊張の糸がプッツリを切れたらメンタルになってしまったり病気になってしまったり、最悪は死に至るかもしれません。そう考えるとゾッとします。

頼ると甘えの境界はその人が決めています。周りがどのように見るかではなく、どう見えるかを気にしてしまうから頼ることが甘えに感じられます。
もっと正直に自分らしく、精神的にキツかったら愚痴をこぼして甘えていいんでしょうし、肉体的にキツかったら誰かに手伝ってもらっていいんです。

甘えなんじゃないかとか考える前に、まずは自分に正直になってみましょうか。

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