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モブキャラの主張

今日は鮭とばの代打です。99日目、毎オムです。

急なnoteにも対応できる暗い文章書くことに抵抗がなくなったのは続けてきた成果の一つかなと。

先ほどまでクラムシティとのむきむきラジオ、そしてそのあと雑談をしていた。

まぁそこで色々みんな各々何かを思いながら生きているんだなぁと改めて感じた。

時折私のコラムで書いてきた、自分は自分の小説の主人公だが、他人は他人の小説の主人公なんだと実感するわけである。

人間というのは良くも悪くも何かに当てはめようとしてしまうものだと思っている。

例えば、あの上司さえいなければ私はこんな大変じゃないのに。とか

上手くいかないのは誰誰がこうだからだ!こうなっているからだ!と理由をつけたがる。

もちろんそれが悪いとは思わない。そういう愚痴まがいな話は個人的にも好きだ。

だがこれは、半分冗談というか愚痴を言うのが目的というか話のタネとして使うのはありだと思うが本気で悩んでいるなら話は別だ。

大体自分が変わったほうが早いのだから、問題点をしっかり見極め解決しないと延々と架空の敵と戦うこととなる。

例えば、あいつさえいなければのあいつはなんでそうなのか?考えたことはあるだろうか?

彼は彼の小説の中では主人公なのだ。

例えば仕事量が多すぎてあの上司はブラックだ。という問題を抱えていたとしてなぜじゃあ彼はそんなことをするのか?をかんがえたことはあるだろうか。

ちゃんと自分の意思を伝えただろうか?

この仕事量はこなせません。と一言でも伝えただろうか?

上司はそんなこととは思っていないかもしれないし、分かってやっているかもしれない。

だが、自分ができるできないを言わないとわからないのは当たり前だ。

と、これは適当な例だが人はそれぞれの小説の中で主人公であり自分が思っているより考えて生きているし、他人のことはわからない。

よく学生時代、現代文の小説みたいなセンター試験問題に対して「作者の気持ちなんかわかるわけない」と文句を言っていた奴がいたが、そういうやつに限っておそらく先述したように何かに当てはめて考えたがるのだと思う。

すこし自分語りになってしまうが、私は現役時代勉強はできなかったが現代文だけはできた。

読めば答えが書いてあるじゃないか。という感じであまり現代文に苦戦はしなかったのだが、これは小学生時代に予備校で国語の先生から勉強方法を教えてもらったのが効いていたんだなと今思う。

小学6年の時、宿題で毎日か忘れたけど自主学習の宿題があった。

最低ノート2pみたいな雑な宿題で内容は何でもよかった。

私はそこで予備校の先生に言われた

新聞のコラムを要約してみるといいよ。そこにここにこう書いてあるからこれを書いた人はこう思っているけど、私はこう思うまでかけるとなおよし。

という事をやっていた。

みんなは問題集とかをやっていたが、新聞記事を貼りつけて要約して自分の意見まで書くみたいなイカレタ小学生は自分だけだったが、先生に当時褒められた記憶はある。

そんなこんなで話はそれたが、人の気持ちが分からないデリカシーのない奴と言われている私も文章の作者の気持ちを汲み取るのは得意だった。

何か問題を何かに当てはめたがる人は、個人的にはこれができないんじゃないか?と思う。

他人は他人の中で主人公だという意識が欠落しているのでは??

現代文は文中に作者の主張が書かれていたから言いたいことはわかるが、現実では何もなければそれは伝わらない。

自分はこうですと言わないと相手はそれが分からない。

自分がこううまくいかないのはあいつのせいだ!と思うならなぜあいつは自分に対してこうなのか?を考え、自分がこうしてないからいけない。

と最終的に自分の行動に落とし込む必要がある。

それはそこから逃げることかもしれないが、自分が変わることから逃げるのは何も解決しない。

と、偉そうにいろいろ言ったがみんな各々言いたいことも言えないこんな世の中で生きている。

もちろんわかっててもできないことが多いのもわかる。

個人的に言いたいのは、他人の小説の中で自分はモブキャラなのだ。

漫画を読んでて、セリフのない村人Aの感情が分かるだろうか?ということだ。

セリフのない、アクションのないキャラに何の感情移入もできないのは当たり前である。

という意識は持って生きていくことが大事だよなぁ~とだけは思って生きている。

ではでは

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